【達川光男 人生珍プレー好プレー(10)】運命とは分からないものです。県立広島商高、通称「広商」の1年秋、もし2年生不在の練習日に同級生が仮病で練習を休まなければ、私が捕手になることはなかったかもしれないのですから。

 迫田穆成(よしあき)監督にレフトからのコンバートを命じられ、1971年秋の中国大会に第3捕手としてベンチ入りすることになった私が最初にしたのは、キャッチャーミットを買いに行くことでした。ほかのポジションで使うグラブは自前ですが、ミットの購入費だけは学校で支援してくれたのです。

 指定のスポーツ用品店に行った私は店員さんに「捕りやすい、いいのをください」とお願いし、2万円ほどする美津和タイガーのミットを購入しました。野球部部長の畠山圭司先生からは「領収書は忘れずにもろうてこい」としか言われていませんでしたが、予算オーバーだったみたいで…。領収書を渡したら怒られました。

 そして迎えた中国大会1回戦前日のこと。私は迫田監督に「明日はおまえでいくぞ。ピッチャーとサインの打ち合わせをして、よう話し合っておけ」と告げられました。翌春の選抜につながる大事な大会で、相手はのちに中央大―河合楽器を経て80年ドラフト2位で西武入りする岡村隆則さん擁する山口の柳井高。そりゃあ緊張しましたよ。

 ところがです。試合当日に球場入りすると、迫田監督から思ってもいなかったことを言われました。

「昨日なあ、夢を見たんじゃ。おまえが満塁からキャッチャーフライを落とす夢。骨折してても力を使うわ」

 力とは、右手薬指を骨折していた正捕手の斉藤力さんのこと。ベンチスタートとなった私は、正直なところホッとしました。選手というのは、いつだって試合に出たいもの。出られないと分かって喜んだのは最初で最後です。試合には途中出場しましたが、チームは3―5で逆転負け。翌春の選抜大会への道は閉ざされました。

 その後も捕手の練習を続けましたが、どうにも上達しなかったのがフライの捕球です。三半規管が弱くて、抜群の運動神経を誇った小学生のときからマット運動や鉄棒などの回転系の動きは苦手でした。ノックのときでも打球と反対方向に行ったり、追いついてもポロポロと落としたり…。おまけにエースとなる同級生の佃正樹としっくりいっていなくてね。別に仲が悪いというか、ケンカしたとかではないんですけど。

 翌72年夏は県大会でベンチ入りできず、チームは1回戦で大竹に14―0と快勝したものの、2回戦で広陵に3―6で負けてしまいました。その翌日、新チームがスタートするにあたって私に与えられた背番号は「7」。迫田監督からは「おまえはおっちょこちょいじゃけえ、キャッチ(捕手)には向いとらん」と“捕手失格”の烙印まで押されました。