【達川光男 人生珍プレー好プレー(8)】強豪の県立広島商高、通称「広商」の野球部で待っていたのは、過酷な日々でした。1年生は朝練の前にグラウンド整備をしなければならないので毎朝5時起き。私は小学3年生から中学を卒業するまで新聞配達をしていたので早起きは慣れたものでしたけどね。 

 配っていたのは毎日新聞でノルマは50部。広島では地元紙の中国新聞が圧倒的なシェアを誇っていて部数は少ないんですが、逆に担当エリアは広くて自転車でも配り終えるのに1時間半かかりました。毎朝4時起きで月給2500円。つらかったけど「これで何か食べなさい」と100円玉をくれる老夫婦がいて、そんなときだけ「ありがとうございます!」と元気になってね。大きな声では言えませんが、遅配や未配で怒られたこともあったなあ…。

 それはさておき、野球部の新入生が「野球」をすることはありません。来る日も来る日も走らされるばかりでした。朝っぱらの素足でのランニングにインターバル走…。クタクタになるまで走り続け、広島市中区舟入にある学校から東区牛田の自宅まで50分ほど自転車をこいで帰ったら日本テレビ系の深夜番組「11PM」が始まっていたことも珍しくありません。地元局のRCCでも午前1時から放送されていたニッポン放送の「オールナイトニッポン」のオープニング曲「ビタースイートサンバ」が流れていたこともありました。

 それから晩ご飯を食べたり、風呂に入ったりするわけですから睡眠時間は5時間ほど。日によっては、フランスの皇帝ナポレオン並みに3時間なんてこともありました。でも、もっと大変だったのは母です。私より早く起きて遅く寝て、食事や洗濯の世話をしてくれるのですから。クモ膜下出血で67歳の若さで他界した母のことを思うと、今でも申し訳ない気持ちになります。

 広商時代には入学時から卒業するまで続けていたルーティンがありました。通学途中に日が昇ると、自転車を止めて手を合わせ「甲子園に連れていってください」とお日様に拝むことです。戦国時代に中国地方のほぼ全域を制覇した武将、毛利元就の「日輪信仰」にならったもので、迫田穆成(よしあき)監督の教えでもありました。

 元日には野球部全員で世界遺産の厳島神社があることで知られる宮島に赴き、標高535メートルの弥山(みせん)を登って山頂で初日の出を拝んでいました。上級生用の場所取りのために1年生は走って登らなきゃいけなくてね。

 古くからの高校野球ファンには知られた話ですが、広商野球部には「真剣の刃渡り」というものもありました。台の上に刃を上にした2本の日本刀を並べて、その上に素足で乗るんですよ。両脇に立った人の肩を借りてね。ゆっくり乗って、ゆっくり降りるから足の裏が切れることはないんですが、いま思い出してもゾッとします。

 入部からまともに「野球」をしないまま最初の夏を迎え、県大会ではベンチの脇にちょこんと座って試合進行のお手伝いをするバットボーイを仰せつかりました。広商は準決勝で広陵に2―4で敗れ、3年生が引退。新チームになってから私の野球人生が少しずつ動き出していきました。