【達川光男 人生珍プレー好プレー(9)】1971年夏、県立広島商高、通称「広商」は県大会の準決勝で広陵に2―4で敗れてしまいました。駒沢大を経て巨人入りする二宮至さんや、いずれも入団には至りませんでしたが同年秋のドラフト会議でカープから4位指名された荒谷稔さん、同10位でのちに広商の監督もされた若松茂樹さんら3年生は引退。2年生15人、1年生12人による新チームがスタートしました。
前にも触れましたが入学時には私を含めて1年生部員が70人いたんです。それがわずか4か月ほどで6分の1近くに減ってしまった。1人はマネジャーで選手は11人。それだけ過酷な日々だったということです。我ながら、よく耐えたと思いますよ。
選手の数は減りましたが、すぐにレギュラーだベンチ入りだとトントン拍子にはいきません。やってみたかった投手は3日でクビ。三塁や遊撃、二塁、一塁と内野を転々としたものの芽が出ず、最後にたどり着いたのはレフトでした。
しかし、ここでも問題が発生しました。このころから近眼が始まっていて、メガネをしないと打球がよく見えんかったんです。うっかりメガネを忘れてしまった日は、もう大変でした。午後4時から始まるノックでは薄暮でさっぱり打球が見えないんですから。一緒にレフトを守っていた同級生に「打球方向が右か左かだけ教えてくれ」と頼み、勘で捕りに行きましたけど結果はボロボロ。さすがにこれではまずいと思い、同級生の勧めもあってコンタクトレンズを入れるようになりました。
そんな私に転機が訪れたのは同年10月です。広商は秋季大会を制し、中国大会が始まるまで2週間あったことから2年生が修学旅行に行ったんです。その間は1年生だけで練習するわけですが、よりによって捕手をしていた大城登が仮病で休みやがりましてね。シートノックをするにも捕手がいなくては都合が悪いので、2人いたレフトから私が回ることになったんです。
結果的に、これが“運命のいたずら”でした。私のスローイングを見た迫田穆成(よしあき)監督が「おまえ、いい肩しとるのう。明日からキャッチやれ」と。ちなみに「キャッチ」とは捕手のことで、迫田監督はいつもそう言っていました。小学5年生のときに出場したソフトボール大会で捕手をさせられたときは「キャッチャーはつまらん」と嫌っていたポジションでしたが、広商で試合に出られるとなれば話は別です。
2年生で正捕手の斉藤力さんは右手薬指を骨折していて、マネジャーから選手に戻った2番手捕手の姫野徹さんは肩が弱かった。そんな事情もあって私は第3捕手として中国大会にベンチ入り。それどころか、迫田監督から「明日はおまえでいくぞ」と柳井(山口)との大事な初戦でのスタメン出場を言い渡されました。しかし、いよいよ公式戦での捕手デビューとなるはずが、翌日に待っていたのは大どんでん返しで…。












