【森脇浩司 出逢いに感謝(31)】プロ5年目の1983年に再び大きなケガに見舞われました。それまで右肩の痛みを隠しながらやってきて、仰木彬内野守備走塁コーチに励まされながらこの年も開幕から使ってもらった。それが6月19日の南海戦の守備中でした。一塁走者のジム・ライトルは紳士的な選手ですが、当時はゲッツー潰しに来るのが当たり前。門田博光さんの二塁ゴロを4―6―3のケースでショートの僕がセカンドからボールをもらい、一塁に送球しようとした時、ライトルの左足スパイクが僕の踏ん張った左足の上に刺さった。足が動かない状態で上に乗られ、はりつけのような状態になって靱帯が切れた。
仰木コーチが飛んできて「大丈夫か!」「大丈夫です…」。大丈夫どころか左ヒザの下はぶらぶら…。出血もあったけど、とにかくヒザが痛かった。数週間前に西武・太田卓司さんの打球をヒザに受けていた影響もあったかもしれません。夜になって病院に行くと、内側側副靱帯断裂で入院ですよ。
プロ4年目から若くして試合に出て、5年目の大きなケガで今季絶望などと報道された。自分の中ではライトルを恨んでなくて、ボールを捕ってから素早く投げれる技術を身につけないといけないな、と。当時はキャンプからゲッツー潰しのスライディングの練習をする時代でしたし、守備でもジャンプしてかわして投げるとか、今まで以上にやらないといけない。ケガするのも自分の能力。ネガティブではなく、この入院の時間をどのように使おうかを考えました。右肩の痛みで落ちていた握力を戻し、読書をし、できることをやりました。
でもチームの人たちは心配してくれるわけです。4年目の82年が肩の負傷と右太ももの肉離れ、5年目が靱帯断裂。2年連続で開幕スタメンのチャンスが来たのにまたこういうことになったので「あいつはもしかしたら自殺するんじゃないのか」って話になってたみたい(笑い)。僕はそんなこと思っていないのに、毎日のようにチームメートや関係者が誰かしらナイターの試合前とかに励ましに来てくれるんです。見舞いに来てくれた人に出前で昼飯や晩飯を出し、退院するまでの3か月くらいで60万くらいになってました(笑い)。ありがたいことですよ。
その時期に悪徳商法というのもあってね。不幸続きの僕が入院しているというので「面会したい」と病院に電話がくるんです。壺とか印鑑とかを売りつけようとしてくる。一度、東京から来たという人を病室に入れて話を聞いたら、姓名判断から入って「今の名前のままならこの先も災難が続く」と言われましてね。僕は「親がつけてくれた名前で僕に降りかかることは避けて通れない。名前を変える考えは一切ないです」と帰ってもらった。
でも…そういう人たちは僕の実家の住所を調べて親のところに行っていた。すでに印鑑を買ってしまっていて…。これも人生勉強ですね。












