【平成球界裏面史 近鉄編28】近鉄消滅の平成16年(2004年)から米大リーグ・ドジャース、オリックス、中日、楽天と渡り歩いてきたジャーニーマン・中村紀洋。前所属球団退団から電撃移籍というパターンに「もう慣れたよ」と笑っていたが、当時の心労は相当だったはずだ。

NPB通算2000安打を達成した中村紀洋(左)に花束を渡す谷繁
NPB通算2000安打を達成した中村紀洋(左)に花束を渡す谷繁

 平成23年(11年)シーズン途中に横浜ベイスターズに入団し、開花前の筒香嘉智(DeNA、レイズ、パイレーツなど)ら若手とプレーする中で新たなモチベーションも芽生えていた。ベテランとしての居場所を確保したかのようにみえた。

 だが、移籍2年目の12年、DeNA元年の中畑ベイスターズでは歯車が噛み合わない現象が起きた。8月に入って首脳陣批判があったとされ登録抹消。4点リードの終盤七回二死一塁、自らの打席で二盗を決めた内村を叱責した。内村に「グリーンライト」を与えていたベンチを批判したとされた問題だ。

 紆余曲折あったもののその後の9月、中村は再登録され戦列に復帰した。それ以降はシーズン終了まで、リーグ最下位だったチームを主軸として支えた。このまま一件落着かという空気にもみえた。

宮本慎也(ヤクルト)杉浦友紀アナウンサー(NHK)谷繁元信(中日)中村紀洋(横浜)
宮本慎也(ヤクルト)杉浦友紀アナウンサー(NHK)谷繁元信(中日)中村紀洋(横浜)

 翌13年は開幕戦こそ代打要員でベンチスタートとなったものの、程なくして三塁のレギュラーに定着。5月1日のヤクルト戦(横浜)では日米通算2000安打を本塁打で達成した。これはイチロー、松井秀喜、松井稼頭央に次ぐ史上4人目の記録となった。

 それでも「NPBで記録した2000安打までセレモニーは遠慮させてください」と日本のみでの大台にこだわった。05年4月に記録したドジャース時代の5安打も紛れもない実績のはずだが、ここには執拗(しつよう)にこだわった。

ファンの声援にこたえる中村紀洋(2013年5月)
ファンの声援にこたえる中村紀洋(2013年5月)

 その理由は後に分かることになる。日米通算2000安打達成からわずか4日後だ。5月5日の中日戦(ナゴヤドーム)で答えを出した。

 古巣の中日戦の8回、中田賢一から左中間を破る2点二塁打でNPB通算2162試合目、史上43人目の2000安打を達成。5球団を渡り歩き、この記録に達したのは加藤秀司(阪急、南海、巨人など)に次ぎ2人目という華々しい記録だった。

 当時の中村はこう話している。

「2000安打達成の日を家族全員に見てもらえる日があるとすれば、逆算したら5月5日しかなかった。子供ももう部活とかで忙しいしな。ちょうど『こどもの日』やったし、ここしかないやんと思ったな。嫁も子供も球場に呼んでワンチャンスで決められた」

中村紀洋2000本安打表彰式を眺める中村浩子(妻)
中村紀洋2000本安打表彰式を眺める中村浩子(妻)

 妻と3人の娘を球場に招待し目の前で勲章をつかんだ。ドジャース時代の5安打を消したいなんてわけではない。家族の来場に合わせセレモニーを5月5日に決行するため、日本通算2000安打達成に重きを置いたのだ。

 この13年は6月30日の中日戦で山本昌から先制ソロを放ち史上18人目の400本塁打も達成。同じ試合の9回にサヨナラ安打も記録した。最終成績は122試合で打率2割8分1厘、14本塁打、61打点。7月で40歳となったベテランとしては安定の成績だといえる。

サヨナラタイムリーを放った中村紀洋(2013年6月)
サヨナラタイムリーを放った中村紀洋(2013年6月)

 それなのに…と思われる事態がこの後の中村を襲うとは本人も予想しなかっただろう。