【平成球界裏面史 近鉄編27】平成21年(2009年)、中日からFAで楽天に移籍するも結果を残せず2年で戦力外。近鉄消滅から5年後、中村紀洋は苦境に立たされていた。
シーズンオフにトライアウトを受けることもなく他球団からのオファー待ち。しかしキャンプ、オープン戦の時期を過ぎ、開幕となっても獲得に名乗りを挙げる球団は現れなかった。
「浪人もやむなし」。11年の1シーズン丸々、棒に振っても12年シーズンに向けて準備をしよう。そんな覚悟を決めた頃、交流戦期間中の5月に中村のもとに横浜から電撃オファーが入った。シーズン途中での加入ながら、中村は持ち前の勝負強さを発揮した。懸命なプレーで〝居場所〟を確保できたかに見えた。
だが、横浜移籍2年目となった12年の夏に事件が起こった。8月15日の阪神戦(横浜)だ。ベイスターズ4点リードの7回二死一塁で打席に中村。このケースで一塁走者の内村賢介が二盗を決めたのだが、このプレーをきっかけに中村と首脳陣が衝突することとなった。
内村の二盗で場面は二死二塁と変わった。この後、中村は空振り三振に倒れて3アウトチェンジとなった。ダッグアウトに戻った中村は内村に対し「なんであの場面で走るか」と苦言を呈したのだ。
これには当時の野球界でも見解が分かれた。ゲーム後半、4点リードの7回二死二塁での盗塁企図。これは相手チームに対してのタブーとなるとまでは言えない。得点圏に走者を進め、勝負強い中村の打撃で追加点を狙ったものだという理解もできる。
ただ、一方で4点リードの優勢で7回二死一塁。ここで4番打者となればベンチは動かず主砲に任せるものという考えもあった。状況にもよるが主砲が打席に立つ際には、場面によって走者は打撃の邪魔をしてはいけないという不文律が過去にあったことも事実だ。特に右打者からすれば一塁走者は目に入りやすい。こういった場面ではベンチから「走るな」というサインを出して配慮することも珍しくなかった。
中畑監督の在籍した巨人には王貞治、長嶋茂雄というレジェンドが存在した。そのレベルと当時の中村を比較する訳にもいかない。だが、ベンチサイドの配慮があってもよかったでのではという見方もあった。
当時、俊足の内村には自由に盗塁を企図していい「グリーンライト」が与えられていた。つまり、あの場面で内村の盗塁企図はベンチの指示ということになる。そうなってくると、中村から内村への叱責は采配批判ということになる。実際に中村はその後、登録を抹消された。いわば懲罰降格という形となった。
中村は巨人で4番の経験のある中畑監督と直接、会話を交わしている。「4点リードした終盤の二死一塁で4番。ここで一塁走者にチョロチョロされて打撃に集中できますか?」。中畑監督の答えは「できないな」だった。それでも、翌日に右肘痛という謎の理由で登録抹消された。このあたりから中村と中畑監督、球団首脳との人間関係に亀裂が入ることとなった。

















