【平成球界裏面史 近鉄編22】平成20年(2008年)のキャンプイン前日、1月31日の全体ミーティングで中日・中村紀洋は衝撃を受けた。

CSでタイムリーを放ち絶好調の中村紀洋(2008年10月)
CSでタイムリーを放ち絶好調の中村紀洋(2008年10月)

 近鉄消滅からドジャース、オリックスを経て07年にテスト入団で中日入り。キャンプは途中参加だったため、落合監督の下でのキャンプ直前ミーティングには初めて出席した。

 そこで指揮官は08年シーズンの開幕オーダーをいきなり発表したという。1番打者から投手まで9人の名前を列挙。その先、故障者が出るのか、誰も分からないはずなのだが…開幕オーダーは落合構想そのままに現実のものとなった。

 開幕スタメンには中村の名前も入っていた。当然、意気に感じたことは確かだ。だが、同時にじわじわとプレッシャーを感じている自分もいた。

「ああいうことができるとこが落合監督の独特な部分。『お前たち勝手にやってろ』みたいな風情を装いながら、一人一人はもちろん、全体もしっかり見渡している。もちろん、手を抜くつもりなんてなかったけど、9人の開幕スタメンに指名されたメンバーは特に気を抜けない状況でキャンプインするしかないよね」

 中村は中日の強さの要因をまざまざと感じた。開幕スタメンに選出した選手たちには責任感という重圧を与え、選から漏れたメンバーには奮起を促す相乗効果。人心掌握術にたけた指揮官の手腕に、改めて感服した。

「開幕メンバーから外れていた選手たちからすれば『何がなんでも、メンバーを抜くために頑張れ』というハッパをかけられた状態。メンバーに入っていた選手には『けがをすることなく追い込んで、やりすぎず、気を抜かずやれ』というメッセージがあったと思う。結果的に開幕メンバーに選ばれた選手は誰も脱落しなかった」

左から近鉄・中村紀洋、中日・落合博満監督、梨田昌孝監督(2004年3月)
左から近鉄・中村紀洋、中日・落合博満監督、梨田昌孝監督(2004年3月)

 中村が近鉄に入団しプロの世界に足を踏み入れた頃、初めての監督となったのは故仰木彬氏だった。仰木マジックという言葉があるように、無頼派でありながら変幻自在の名伯楽タイプだ。人心掌握術にたけている部分は落合監督と共通しているとはいえ、タイプは全く違った。

 中村は近鉄では佐々木恭介監督、梨田昌孝監督とOB監督の下で近鉄の「いてまえ野球」を踏襲し「猛牛魂」を磨いてきた。そこからドジャース、オリックスと渡っての落合ドラゴンズ。「勝つことがファンサービス」と割り切った野球は肌に合った。

「中日に骨を埋めようか」という気持ちもあった。だが、そもそも落合監督の構想ではノリの存在がイレギュラーであった事実も知った。07年、08年と中村が三塁のレギュラーという形にはなっていたのだが、サードの本命候補は森野将彦だった。指揮官が適材適所にピースをはめ込みベターな選択をしたことは確かだが、サード・ノリはベストではなかった。

森野を迎える落合監督、左は中村紀(2008年3月)
森野を迎える落合監督、左は中村紀(2008年3月)

 落合監督から「自由にしていいぞ」と言われた時、FA移籍へ心が動いた。周囲からは反対の声も聞こえた。育成で拾ってもらった中日を裏切ったなどと言われたが、それは事実ではない。落合監督が現役時代に口にした「一番、高く雇ってくれるとこにいくんだ」という言葉。その論理に従い中村はFA宣言し野村楽天へ移籍することになった。