【平成球界裏面史 近鉄編21】平成19年(07年)中日・中村紀洋は育成枠から這い上がり日本シリーズMVPに上り詰めた。平成20年(08年)もドラゴンズの中心選手として遜色のない成績を残した。

鋭い視線で中村紀を見守る落合監督(2008年6月)
鋭い視線で中村紀を見守る落合監督(2008年6月)

 近鉄時代は「いてまえ打線」の中核として、豪快に打ち勝つ野球の中心にいた。入団当初はブライアントや石井浩郎らの豪打を目の当たりにし「あんなのは異次元。競争しようという土俵にも上がれなかった」と話すが、猛練習で次世代のスターに成長した。

 米球界挑戦では剛速球とフルスイングの純粋なベースボールも経験。そこからオリックスでの自由契約を経て、中日で初めてセ・リーグでの野球を経験した。

右から中日・落合博満監督、谷繁元信、井端弘和、荒木雅博
右から中日・落合博満監督、谷繁元信、井端弘和、荒木雅博

 常に優勝争いに絡む落合中日の野球は中村にとって刺激的だった。僅差のゲームを鉄壁の守備陣と、強力なリリーフ陣で勝ち切る徹底したスタイルは自身の野球観にもマッチした。

「落合さんがすごかったんやろなあ。ホンマにグラウンドでは野球のことだけ。それが当たり前なのかもしれんけど、それを徹底していた。当たり前のことを当たり前にやる。それができない人間はいらないという組織やったな」

 中村に求められたのは全打席での本塁打でもなく、スーパープレーでもない。プロなら可能な再現性の高い野球を要求された。犠打、進塁打など作戦上、必要なプレーの成功率を限りなく100パーセント近づける野球だった。

「当たり前のプレーをミスなく成功させると、勝ち負けに関係なく野球のリズムが良くなる。負けていても、いずれ流れが来る。落合さんは経験則からthis ballで動くプレーを1発で決めると得点率が上がることを知っていたんでしょうね。強いチームは一発で決める。点が入らなかったとしても次に活(い)きてくる」

 無駄な四球やサインミス。士気を下げるプレーに対し、落合監督は毅然(きぜん)と対処した。現有戦力から適材適書を見極め、持ち駒を最大限に生かす野球。「俺が選んだ選手たちなんだから、できて当たり前なんだよ」という姿勢で堂々と構えていた。

 中村は「ホームランを打ってもハイタッチにも参加せんもんな。プロやなと思った」と畏敬の念を抱いた。ただ2008年、10月4日の巨人戦(東京ドーム)の九回、中村がクルーンからバックスクリーンに決勝3ランを放った時だけは違った。打席に入る前、ウエイティングサークルに落合監督が歩み寄り「普通にやれ。普通にやったら打てるから。いつもどおりセンターから右に向かって打て」と打球方向だけを指示された。

クルーンと談笑する中村紀洋(2008年4月)
クルーンと談笑する中村紀洋(2008年4月)

 いつものように落合監督はハイタッチには参加しなかった。それでも中村がダッグアウトに戻る際、指揮官に視線を向けるとニヤッと表情を崩す姿を目撃した。2人にしかわからない暗黙の空気。「褒められたことが一度もない」というが、唯一褒められたとすればこの瞬間がそうだったと思っている。
 
 若き日から憧れた20歳年上のレジェンド。右方向に強い打球を打つため助言を何度も求めた。最良の指導者の下で野球人生の集大成を。そんな流れになるかにも見えた。だが、中村は08年のオフ、FA宣言し中日に別れを告げることになる。

FA交渉終了後、『高下在心(こうげざいしん)』と書かれた野村克也監督(楽天)直筆の色紙をもらう中村紀(2008年11月)
FA交渉終了後、『高下在心(こうげざいしん)』と書かれた野村克也監督(楽天)直筆の色紙をもらう中村紀(2008年11月)