【平成球界裏面史 近鉄編⑲】日本球界復帰1年目となった平成18年(2006年)、中村紀洋はオリックスで納得いく結果を残すことができなかった。 

落合監督のノックを受けた中村紀は鬼の形相に(2007年2月)
落合監督のノックを受けた中村紀は鬼の形相に(2007年2月)

 オフの契約更改交渉で減額制限を大きく超える年俸を提示され交渉が長期化。07年の1月を過ぎて自由契約となり、所属球団のないまま2月1日のキャンプインを迎えることとなった。

 沖縄でも宮崎でも高知でもない。中村が始動したのは大阪・旧新日鐵堺のグラウンドだった。これは近鉄、ドジャースの先輩でもある野茂英雄氏の計らいによるところが大きかった。

新日鐵堺のグラウンドで自主トレに励む中村紀(2007年1月)
新日鐵堺のグラウンドで自主トレに励む中村紀(2007年1月)

 当然ながらNPBの関係者はいない。近鉄の先輩であり、義理の兄でもある村上隆行氏(現ソフトバンク二軍打撃コーチ)や旧知の友人たち、NOMOベースボールクラブからの有志の協力を得てキャンプをスタートさせた。

「この時期にどこのユニホームを着ることもなく迎えるのは、野球選手としてすごく寂しいこと。でも、一生懸命やっていたら、絶対に誰かが見てくれている」

 焦りがないと言えば嘘だった。それでも、できうる限りの準備をするしかなかった。

左から落合博満氏、梨田昌孝氏、中村紀洋(2004年3月)
左から落合博満氏、梨田昌孝氏、中村紀洋(2004年3月)

 この頃、水面下では近鉄時代の恩師である梨田昌孝氏(野球評論家)が、同い年で親交の深い当時の中日・落合博満監督へ中村獲得を熱心に打診していた。ドラゴンズの方針として、中村の守る三塁には森野将彦を起用する方針だったため、当初は断りを受け続けた。それでも、梨田氏が粘り強く声をかけた結果、中日入りへの道が開けることとなった。

 02年オフ、中村を近鉄残留へ粘り強く説得したのは梨田監督だった。近鉄を選んで残留した後輩。しかし、2年後に球団が消滅した。帰る家を無くした後輩のキャリアを終わらせるわけにはいかない。梨田氏の親心が稀代のアーチスト・中村の野球人生を繋いだ。

 春季キャンプも中盤に差し掛かった2月12日、ノリに吉報が届いた。中日にテスト生としてキャンプに参加を認められた。中村は同15日に北谷キャンプに合流。10日間の参加で合格を勝ち取り、同25日に年俸400万円、背番号205で育成枠で入団することが決定した。

背番号205を背負った中村紀(2007年3月)
背番号205を背負った中村紀(2007年3月)

 額面上は前年2億円の50分の1の年俸。金銭面だけのことを考えれば、オリックスが提示した8000万円を選択した方がよかったかには見える。だが、中村は「お金は関係ない。プロとして必要としてもらえるかが大事」と後悔はしなかった。

 現実的には「税金払えるんかな」と心配も口にしたが、ユニホームを着ることができる喜びには変えられない。「子供の頃みたいに野球小僧に戻って頑張らんとな」と話す表情は希望に満ちていた。

 初めて住む名古屋の地では単身赴任だった。球団寮に入ることを希望していたが、当時は満室。「育成選手だし寮生になろうと思ってたけど、部屋がないとは痛いなあ…」と諦めて名古屋市内のマンションを契約した。

配下選手契約を交わし、99番のユニホームを着る中村紀洋、右は井出峻編成担当(2007年3月)
配下選手契約を交わし、99番のユニホームを着る中村紀洋、右は井出峻編成担当(2007年3月)

 オープン戦では順調に結果を残し、開幕直前の3月22日に年俸600万円で支配下選手契約を勝ち取った。背番号は近鉄でプロデビューした時の66を逆さまにした99を選んだ。