【平成球界裏面史 近鉄編⑱】平成19年(2007年)、年をまたいでも中村紀洋の契約はまとまっていなかった。

契約更改を終え、胸に手を当てた中村紀(2006年12月)
契約更改を終え、胸に手を当てた中村紀(2006年12月)

 06年オフから行われてきたオリックスとの契約更改交渉では、減額制限を超える60%減の8000万円(推定)の単年契約の提示を受けた。

 これを事実上の戦力外通告と判断した中村は球団に対し自由契約を申し出たが、それも認められず。そこから越年し6度もの交渉が行われたが、時間の浪費に終わった。

 交渉決裂が決まった1月12日に中村は芦屋市内のホテルで会見。多くの取材陣が集まったが、オリックスの仕切りはなかった。筆者と中村とでテレビ、新聞など報道各社と連絡を取り合いながら、ホテルの許可を得て行われた緊急会見はある種、異様だった。

中村紀洋(左)と代理人の茂木立仁氏(2006年12月)
中村紀洋(左)と代理人の茂木立仁氏(2006年12月)

 契約更改交渉が不調と報じられた初期の頃は、中村を調査する球団も複数あった。近鉄時代に打撃コーチとしてなじみのあった、当時の阪神・正田耕三打撃コーチからも、岡田彰布監督に獲得検討の進言がなされていた。

 だが、交渉が難航、長期化する間にトーンダウン。来季の編成が固まる頃、岡田監督を取材すると「もう、こんな時期に無理やんか。取られへんて」と当然の返事が返ってきた。

岡田彰布監督と正田耕三打撃コーチ(2005年4月)
岡田彰布監督と正田耕三打撃コーチ(2005年4月)

 ようやくオリックスが中村を自由契約選手にすると正式発表したのは1月17日。各地で選手たちが自主トレに励んでいる時期だ。こんなタイミングで自由契約となったところで、他球団への移籍が困難なのは明らかだった。

日本プロ野球選手会事務局長の松原徹氏(2004年)
日本プロ野球選手会事務局長の松原徹氏(2004年)

 一連の理不尽な処遇に、日本プロ野球選手会も文書でオリックスに抗議を行っていた。早期に自由契約とし中村に謝罪するよう要望。さらに、納得のいく措置を取られない場合はコミッショナーへの制裁発動要求や法的措置も検討するという内容だった。減額制限を超える契約には本人の同意が必要にもかかわらず、球団側が一方的に変わらぬ金額提示を続けた事実。これに当時の選手会・松原徹事務局長は「保留者名簿に記載して他球団との交渉を禁じた上で年俸下げ放題というメリットの二重取りは許されない」と強く反発した。

 球団から選手に戦力外を通告する場合、合同トライアウトまでに行われるべきという、NPBと選手会との申し合わせ事項とも矛盾する。当時のオリックス球団もイメージダウンしたはずだ。メリットがあったとすれば、この後の世代の選手に同じような“被害者”が出ていないということくらいだろう。

 中村は近鉄という帰る家を無くし渡米。1シーズンをほぼドジャース3Aで過ごし地元・大阪のオリックスに帰ってきたはずだった。だが、その1年後にはまたも帰る場所を無くす皮肉な状況に陥った。

自由契約について語る中村紀(2007年1月)
自由契約について語る中村紀(2007年1月)

 もうキャンプイン目前。タイミング的にはキャンプ地での合同自主トレに出発かという時期だ。あの当時で通算319本塁打のスラッガーは魅力でも、どこの球団が獲得に乗り出せるのか。ほぼ皆無だと誰もが考えていた。

 現役として07年もプレーする気持ち満々の中村だったが「ホンマにどうなるか分からんけどな」と不安しかなかった。それでも「何があるか分からんから、体だけは動かして準備するしかないやろ」と前を向いた。NPB全12球団が各地で一斉にキャンプインした2月1日、中村はたった1人で自主キャンプをスタートさせていた。

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