【平成球界裏面史 近鉄編⑭】球界再編騒動の渦中に置かれ、平成16年(2004年)を混沌としたまま終えた近鉄ナイン。

 その中でも合併球団のオリックスバファローズにも、新規参入の楽天イーグルスにも所属せず、海外挑戦の道を選んだのは中村紀洋(現中日二軍打撃コーチ)だった。

 レギュラーシーズン、アテネ五輪、合併騒動と慌ただしいシーズンを戦い終え、11月3日にポスティングでのメジャー挑戦を表明。この結果、名門ドジャースとマイナー契約を結ぶに至った。

一塁守備で球をはじいてしまった中村紀(2005年3月)
一塁守備で球をはじいてしまった中村紀(2005年3月)

 ただ、このマイナー契約というカベは想像以上に分厚かった。今では多くの日本人選手が様々な契約形態で海外でのプレーを選ぶ時代になった。だが、このころの一般的な知識ではマイナー契約とは何か、という概念はあいまいだったはずだ。

 二軍スタートだけど、ファームの試合で結果を出せばメジャーだって狙える。そんな甘いものではない。大リーグには40人枠という直接支配下の選手登録枠が存在。さらに、その中から試合に出場可能な25人枠(現在は26人)が設定されていた。

 つまり、40人枠に入っていないマイナーリーガーがMLBの試合に出場するためには、40人枠内の選手がDFA(事実上の戦力外)となるか、故障者リストに入らなければならない。ただ、こういった現象はそう簡単には起こらないのが現実だ。

ファールフライを追いかけた先に穴があった(2005年3月)
ファールフライを追いかけた先に穴があった(2005年3月)

 05年の中村はオープン戦20試合で打率2割9分5厘、チームトップタイの3本塁打、8打点を挙げた。日本のイメージなら二軍から一気に開幕一軍となるかもしれない。だが、40人枠選手に大きな問題もなかったため、中村はマイナースタートとなった。

 ただ、念願のメジャーデビューが意外にも早く訪れた。4月10日に故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わり、中村が晴れてメジャー昇格。だが、約1か月後の5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスを40人枠入りさせたことにより、中村はマイナーに逆戻りすることとなった。

「言いわけになってまうけど、本当の意味での勝負をさせてもらえなかったなあ」

 当時の中村はポツリとつぶやいた。口に出すことをガマンできないほどに悔しかった。そこからメジャーに再び呼び戻されることはなかった。

トレーシー監督と握手する中村紀(2005年4月)
トレーシー監督と握手する中村紀(2005年4月)

 3Aラスベガスでは101試合に出場。打率2割4分9厘、22本塁打、67打点。打者優位とされるリーグ内にあって打率は90人中、85位、本塁打は17位という内容をどうとらえるかは難しい。だが、中村はある信念のもとバットを振り続けた。

「10代後半とか20代前半の名前も知らない若い投手が、びっくりするほど速い160キロ近い豪速球を投げてくる。それを思い切り打ち返す。純粋に野球を楽しめた時間でもあったかな。俺は全打席でホームランを狙っていたよ」

中村紀は手を抜かず打席に立ち続けた(2005年3月)
中村紀は手を抜かず打席に立ち続けた(2005年3月)

 真夏のラスベガスは気温が50度ほどにまで上昇する。砂漠の猛暑地帯だ。屋根のない駐車場に車を停めていると、ハンドルを握れなくなるほどに暑かった。

 ほぼマイナー生活で終わるにしても目の前の打席で手を抜かない。そんな中村をしっかり調査している球団の姿がアメリカにあったのことも、このころの事実だ。