【平成球界裏面史 近鉄編⑬】混迷を極めた近鉄、オリックス合併騒動から球界再編問題へと揺れ動いた平成16年(2004年)。ざわざわしたままシーズンは進み、9月27日にはオリックスブルーウエーブと近鉄バファローズの本当の最終戦(グリーンスタジアム神戸)が行われた。
中でも中心打者として活躍した中村紀洋は02年オフにFA宣言した上で、近鉄と6年契約を結んだばかり。そこからわずか2年で球団自体が消滅する結果となり「ホンマになんやったんやろな…」と釈然としない表情で来季の居場所を模索していた。
当時の球団関係者からの情報では、引退後には指導者、監督しての道を用意することも約束されていたという。現在、中村は中日の二軍打撃コーチを務めているが、7月24日に50歳となった年齢バランスなどを考えれば、近鉄の監督に就任していても何ら不思議ではない。これは他の近鉄OBに関しても当てはまるが、帰る家をなくしたという表現が適当だろう。
中村に関してはオリックスが契約内容を引き継いで合併球団のプロテクトとなることが既定路線だった。だが、中村には違った感情が生まれていた。
「オリックスバファローズにしても楽天イーグルスにしても、どちらのユニホームを着ている自分もイメージはできない。それならば2年前のオフに目指したMLBの道を目指せないものかと。アメリカでもう一回、チャレンジしてみよう。そういう気持ちに傾いていったね」
2年前とは違い好条件でのメジャー契約というわけにはいかない。それは分かっていた。ポスティング・システムを利用しての、米球界再挑戦という方向に舵を切った。
一緒に主力として戦った礒部や岩隈が合併球団入りを拒否し、新規参入球団入りを希望した。そういった中で11月3日に大阪市内の近鉄系列のホテルで会見を開きメジャー挑戦の意思を表明した。
当時の中村紀洋専属広報だった岡泰秀氏が「この会見ももう、どこが仕切ってやったらええんか正直なところ謎ですよ。もちろん近鉄が仕切るのが義理なんでしょうけど、会見場のホテルの部屋代だってどこが払うのって思ってしまいますよね」と語ったことが印象に残っている。
中村はそこから代理人・団野村氏の力を借り、米球界入りへ本格的に動き出した。オフにもトレーニングを継続。米・ロザンゼルスでショーケース(実力を披露する公開練習)を行い、複数球団のスカウトの前で鋭い打球を披露した。
この際、中村サイドは自らフリー打撃などに使用するボールを用意した。当時の関係者がみんなでボールの銀紙をむいた。「遠くまで飛んでくれ」と願いを込めてボールをこねた。
そしてドジャースが落札し、年俸はおよそ10分の1となる5000万円のマイナー契約に落ちついた。当時は米球界移籍に関しての一般的知識も薄かった時代。マイナー契約の意味を正確に理解している野球ファンも少なかったはずだ。二軍で頑張れば一軍に上がれるわけではない。中村の苦難の道はこれから始まることになる。
















