【平成球界裏面史 近鉄編⑪】平成16年(2004年)9月23日にNPBサイドと労組選手会の労使交渉が行われ、近鉄とオリックスの合併を事実上受け入れる最終決断がなされた。

ポスティングでドジャースに移籍した中村紀(2005年3月)
ポスティングでドジャースに移籍した中村紀(2005年3月)

 これにより、05年以降の12球団制の維持が決まり、楽天イーグルスが誕生する流れとなった。楽天が当たり前に存在する現代では想像できないかもしれないが、ここからのチーム編成はまさにドタバタ。それは当然で、近鉄バファローズを楽天イーグルスが買収するのとはまったく話が違った。

 あくまでオリックスが近鉄を合併し、1球団が消滅した上で新規球団を再編成するわけだ。ライブドアとの新規参入合戦を楽天が制し、11月2日のオーナー会議で楽天球団が誕生。そこから8日にオリックス、楽天に選手を振り分ける分配ドラフトが行われたのだが、すんなりとはいかなかった。

楽天の参入を発表する滝鼻卓雄議長(2004年11月)
楽天の参入を発表する滝鼻卓雄議長(2004年11月)

 戦力均衡を図るためのドラフトではない。近鉄、オリックス両軍の選手からまず、オリックスがプロテクト25選手を優先的に選択。続いて楽天が20人を指名する形のルールでチームが編成されていった。

 オリックスは合併のメリットとして戦力補強も意図だとしていた。確かに最初に25人を選択できるわけで、両軍の主力を指名でき優位な編成を画策することはできた。

 だが、主力打者の中村紀洋は分配ドラフト前の11月3日にポスティングでのメジャー挑戦を表明(オリックスのプロテクト枠にはオンリスト)。若きエースだった岩隈久志はプロテクトされながら、オリックスへの加入を拒否した。岩隈は「事前に(オリックスに)行きたくないという選手は楽天に行けると選手会から伝えられていた」とし、長期にわたって処遇が決まらないという異常事態も発生した。

 岩隈はオリックス新監督に決まった故・仰木彬氏や、小泉隆司球団社長と会談を重ねた。小泉氏との会談後の会見では「合併が決まった6月以降のシーズン、ずっとつらい思いで野球をやってきた。オリックスではプレーできませんと伝えた」とストレートに思いをぶつけた。

楽天入団会見で三木谷氏と手を合わせる岩隈久志(2005年1月)
楽天入団会見で三木谷氏と手を合わせる岩隈久志(2005年1月)

 パ・リーグの小池唯夫会長が05年シーズンのオリックスでのプレーを進言する動きも見せたが最後まで平行線。世論の反発もあり、最終的にはオリックスが折れる形で楽天に金銭トレードという決着をみた。

 礒部は自らの意思が尊重され、最初から楽天へ分配された。だが、社会人・三菱重工広島からプロ入りした際はブルーウエーブ志望だった。結果は近鉄の3位指名。当時の佐々木恭介監督が、いの一番でヘリコプターで現地入りし礒部を説得に当たり、入団となった経緯もあり「俺はプロ入り前もそうやったし、合併後にしてもそうやけど、ことごとくオリックスさんにはご縁がなかったんやろうなあ。ほんま、不思議なもんやで」としみじみ語っていた。

分配ドラフト後に会見した礒部(2004年11月)
分配ドラフト後に会見した礒部(2004年11月)

 ポスティングシステムを利用しての米大リーグ移籍を表明していた中村紀洋は、名門のドジャースに落札された。02年オフにはメッツからメジャー契約でオファーを受けた。それが近鉄に残留し、わずか2年後にド軍とマイナー契約。「もう俺には帰る場所(近鉄)はないから」と話した言葉が、当時の近鉄ナインの心情を代弁していたように感じた。

ベネズエラのテレビ収録に飛び入り参加する中村紀(2005年3月)
ベネズエラのテレビ収録に飛び入り参加する中村紀(2005年3月)