【平成球界裏面史 近鉄編⑩】平成16年(2004年)9月8日のオーナー会議で近鉄、オリックスの合併が正式に承認された。もう一つの合併に関してはダイエー、ロッテが対象であったことが明かされたが、計画は白紙に。この時点で05年シーズンはセ6球団、パ5球団で開催される流れとなった。
その結果を受け9月9、10日の2日間にわたって労組選手会による、日本野球機構との団体交渉が行われた。選手会側はまだ合併自体の凍結、回避をあきらめてはいなかった。
ストライキは回避する形となった。だが、選手関係委員長でロッテ球団代表だった瀬戸山隆三氏が交渉終了後に近鉄、オリックスの合併が覆らない旨の発言をしたことで物議を醸した。記者会見後に古田選手会長が同氏との握手を拒否した場面は記憶に残る一瞬だった。
9月16、17日にも団体交渉が行われた。NPBサイドは合併の凍結は行わない姿勢を変えなかった。05年からの新規参入という選択肢についても、容認することはなかった。
この結果、18、19日の週末2試合を対象に選手会側がストライキを決行。NPBの歴史で初の出来事だった。当時の世論は選手会側を支持する声が多数。その結果、新規参入が認められ、その後の楽天イーグルス誕生へとつながっていくことになる。
12球団制の維持は実現の方向へ動いた。ただ、これにはもう一つの意味もあった。合併の凍結、阻止はならず。近鉄が消滅することが確定した瞬間でもあった。
当時の近鉄選手会長・礒部公一は「悔しいよ。でも、近鉄、オリックスの合併だけではなく、野球界全体の問題を話し合う中で、自分らのことばかり言い続けるわけにもいかなくなった。選手会みんなで12球団制の維持を勝ち取ったと思わないと」と、なんとも言えない表情で話したことを記憶している。
その後はライブドア、楽天が新規参入をめぐり争う状況となった。当初、ライブドアは大阪ドームの継続使用とバファローズの名を残すことを表明。その後、9月に入って仙台を本拠地にする案を発表した。すると、神戸を本拠地とする意向を示していた楽天も仙台を本拠地にすると言い出す「後出しジャンケン」を展開。結果は組織力、政治力、事業実績などで勝る楽天が勝利するのだが、何とも言えない出来レース感は否めなかった。
何年も経過した後、ライブドア代表だった堀江貴文氏は「若かったね。根回しが足りなかった」などとコメントしている。思えば当時まだ30代に成りたての若き実業家。それを思えば、破格の行動力に驚くばかりなのだが…。
11月2日のオーナー会議で楽天の新規参入が正式に決定。8日にはオリックスバファローズと楽天イーグルスに選手を振り分ける分配ドラフトが行われた。17日には新入団選手を選択するドラフト会議が行われ、新チームが慌ただしく形作られていった。
ただ、近鉄ナインには複雑な思いがあった。労使交渉で前面に出て戦った礒部が「あれだけいろいろと戦って、最終的に合併球団のオリックスに行くって言えるか?」と話したように、主力選手の移籍はスムーズにはいかなかった。
オリックスとしては合併のメリットは戦力補強でもあったはず。だが4番の中村ノリ、5番の礒部、エースの岩隈はオリックス入りしていない。一体、何だったのだろうか。



















