【平成球界裏面史 近鉄編⑨】平成16年(2004年)近鉄、オリックスの合併案に端を発した球界再編騒動は混沌を極めていった。10球団、1リーグ制への移行を急ぐ球界の重鎮たち。そのまま押し切られるのかと思われたが、民意に押される形で12球団2リーグ制存続の方向へと風向きが変わっていった。
7月下旬のプロ野球実行委員会では阪神から球団統合、リーグ再編成などについて、もう1年を費やして議論を重ねるよう提案がなされた。中日、広島もこの案に同調した。
球界再編問題はこのころのNPBにとって最重要課題ではあった。ただ、こればかりを議論しているわけではなかった。3月に脳梗塞のため日本代表監督だった長嶋茂雄氏が入院。病状しだいの現場復帰を求める声が大半だったが、混乱の中で代理監督の人事や8月に開催されるアテネ五輪本番での代表選手選出も進めなければならなかった。
2000年のシドニー五輪ではプロアマ混成チームで臨んだが、04年アテネからはオールプロでの編成。当初はドリームチームを目指したが、最終的には各球団から2選手で妥協する形となった。ペナントレースへの影響を最小限にしつつ、規制のある中でベストメンバーを目指す。それはあくまで建前で投打の主力を派遣する球団などは、調整に難航したものだった。
渦中のチームとなっていた近鉄からは4番・三塁の中村紀洋、若きエースの岩隈久志が選出された。オリックスからは谷佳知、村松有人の両外野手が選ばれた。
特に近鉄・中村、岩隈はチーム消滅の危機に五輪に出ていていいのかと、心の葛藤を持ったまま戦地に向かった。そんな状況とはいえ日の丸を背負う限りは金メダルという目標に向けブレるわけにもいかない。結果、8月15日から25日まで行われたアテネ五輪では銅メダルを獲得することになった。それでも、期間中は日本球界の情勢が気になって仕方がなかったはずだ。
当時の中村は「シドニーで(メダルなしという)悔しい思いを経験して、もう一度こういう舞台に戻ってきたいと思っていた。1位にはなれなかったけど精一杯やった結果」と念願のメダルを日本に持ち帰ることはできた。
中村は五輪大会後の打ち上げ会場でガラスを踏み右足裏を負傷。9月10日に線列復帰となり04年は105試合の出場にとどまった。19本塁打、66打点の数字も中村からすれば物足りないものだったはずだ。
「開幕して2か月で合併の話が出て、8月はアテネ五輪に出場して…。このシーズンに関しては野球どころではなかった」。そう中村が語ったように、近鉄最後のシーズンは通常では考えられない環境だったはず。02年オフに移籍を断念し近鉄残留を決め、その2年後には球団が消滅である。この結果を想像することはさすがに不可能だろう。
五輪後にも球界再編問題はずっと継続していった。アテネに派遣された中村も岩隈も合併後のオリックスには入団することはない未来が待っていた。選手、スタッフそれぞれに、まだまだ混沌の渦中に巻き込まれる近鉄のメンバーたち。
12球団、2リーグ制の存続が決まっても近鉄、オリックスの合併は成立し近鉄球団の存続はないという未来で、それぞれが人生の選択を迫られることとなっていく。

















