【平成球界裏面史 近鉄編③】平成14年(2002年)オフ、近鉄からFA宣言した中村紀洋は、目玉選手として注目され、争奪戦が勃発。米大リーグ・メッツも参戦したが、契約目前でご破算となり近鉄残留が決まった。
日本人内野手として初のメジャー挑戦が白紙となった。移籍を前提としたFA宣言だったため、日本残留なら阪神という流れが有力だった。
91年ドラフトでは高3の大阪大会準決勝で戦った大阪桐蔭・萩原誠が阪神に1位で指名された。中村は近鉄の4位だった。阪神とのFA交渉の席で関係者から「あのとき中村選手を指名していれば」という言葉も出たという。
阪神に悪い印象はなかった。ただ当時、一部の関西スポーツ紙では決断を先送りにし阪神、星野監督をもてあそんでいるという論調が目立った。
「誰を信じていいのかもわからなくなった。意図して周りから話しかけづらい雰囲気を作るようになった。そう演じることで、自分自身が楽になれたから」
阪神に正式な断りを入れる前に、メッツ入りの報道が先行した。「義理を通せなかった」とタテジマを着る選択肢を断念した。結果、熱心に残留を望んでくれた近鉄・梨田監督の下にとどまることを決めた。
平成15年(03年)シーズンは中村にとってケガとの戦いだった。5月半ばに右ヒザ半月板を損傷。「自分が休むわけにはいかない」と強行出場したものの、117試合で打率2割3分6厘、23本塁打、67打点はもの足らない成績だった。
10月に右ヒザ手術を決断。翌年に控えたアテネ五輪に向けた予選では代表候補に選出されていたが辞退した。中村がケガに苦しんでいたころ、移籍先に選ばなかった星野阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たした。
そしてその年のオフにはFA権を取得した西武・松井稼頭央がメッツ移籍を決め、平成16年(04年)に日本人初の内野手メジャーリーガーとなった。
日本では通常通りに春季キャンプが始まろうとしていた。近鉄ナインも1月31日には宮崎・日向に集結。まさか、このシーズン限りで近鉄が消滅するなどとは誰も思っていなかっただろう。
ところがその当日、その兆候が降ってわいた。緊急会見が行われ、永井充球団社長がネーミングライツ(球団命名権)売却の方針を表明。平成13年(01年)のリーグ優勝時にPR効果として算出した361億円の10%、36億円で球団名を売りに出すという内容だった。
この方針自体はその後、立ち消えとなった。だが、経営改善の道が見えない近鉄は衝撃の計画を水面下で進めていくことになる。

















