多くのバットマンを育て上げた中西太さんの手腕は変幻自在だった。打撃技術向上のための引き出しは数知れず。あの手この手を繰り出しては、愛弟子たちに結果を出させた。
近鉄、西武で活躍した村上隆行(ソフトバンク二軍打撃コーチ)から初めて聞いた「何苦楚」というキーワード。これは村上が近鉄入団2年目の85年、当時の中西打撃コーチから授けられた言葉だ。
「何事においても苦しい時の経験が自分の礎(いしずえ)になっていくんや」
中西氏の指導と自身の猛練習が相乗効果を発揮した。村上は20歳にして16本塁打と開花。86年は22本塁打を記録するなど、プロとして土台となる技術を授かった。
「何苦楚」の魂は若き日の岩村明憲(ヤクルト、レイズ、楽天、独立リーグ福島)も座右の銘にしている。
のちのメジャーリーガーも1年目の97年は一軍出場なし。98年は1試合のみの出場という状況だった。大器を大事に育てる方針ではあったが、本人に不安がなかったわけはない。
99年春季キャンプで岩村は「俺、一軍に残れるかなあ。池山さん(当時の正三塁手)と争うなんて…。頑張るからいい記事書いてな」と話しかけてきたことがあった。
「おう」と返事したからには岩村の練習を観察せずには失礼というもの。そこから中西氏の直接指導を凝視することになるのだが、最初は目を疑った。
ティー打撃といえば普通、打者のやや斜め前から補助者が下投げでボールをトスするもの。そうとしかイメージしていなかった。だが、中西氏のそれは真正面から後ろ、横、真上から、さらにはワンバンさせてからなど発想が自由過ぎた。独特の練習法のため、スポーツメーカーが特注の防球ネットを共同開発したほどだ。
当時の中西氏に練習の意図を質問しても「理由なんか知らんよ。打撃にはこうすれば打てるなんて正解はないんやから。いろんなことをするんよ。そういうこっちゃ」とケムに巻かれた。まさにそれが答えだったのだろう。
中西氏の打撃理論は多くの指導者、選手が引き継いでいる。内川聖一、青木宣親、山田哲人、村上宗隆らを育てたヤクルト・杉村繁打撃コーチはこう話す。
「現在の僕の打撃指導の元になっている理論は中西太さん、若松勉さんから受け継いできたもの。指導を受けた選手たちも、いつか次の世代に繋いでくれたらええよな」
中西氏が残した功績、人材。その数は計り知れない。その意志は多くの弟子たちに継承されている。
「怪童」亡き後も「何苦楚魂」、「中西イズム」は永遠に球界から忘れられることはない。















