【赤坂英一 赤ペン!!】「中西太さんのようになってほしい!」
巨人・原監督が、今年のドラフト1位ルーキー浅野翔吾にかけた言葉である。浅野が中西さんと同じ香川県高松市出身、プロとしては小柄な体格も似ていることから、伝説的な大打者を目指せ、とエールを送ったのだ。
中西さんが現役引退後に指導者となり、名伯楽と呼ばれたころは、原辰徳自身も薫陶を受けた。巨人打線が低迷していた1991年のシーズン中、中西さんは藤田元司監督の要請を受けて臨時打撃コーチに就任。翌92年には正式にヘッド兼打撃コーチとなり、生涯で一度だけ巨人のユニホームに袖を通している。
その指導スタイルは実に独特。選手の斜め前に立って球出しをしながら「そうや、そうや、それでええんや!」と前向きな言葉をかけ続ける。
打球が自分の顔面近くに飛んできても微動だにしない。自ら腰を左右に揺すり、下半身でタイミングを取る方法を教える手法は「中西ダンス」とも呼ばれた。「とにかくタイミングの重要性を口酸っぱく言われました」と、当時の川相(現総合コーチ)は語っている。
中西効果により、巨人のチーム打率は91年リーグ5位の2割5分3厘から、92年リーグトップの2割6分2厘に上昇。順位も4位から2位へ上がり、ヤクルト、阪神と最後まで優勝を争った。
2003年、監督就任2年目の原監督は、ふたたび中西さんを臨時打撃コーチとして2月の宮崎キャンプに招いた。松井秀喜がヤンキースに移籍したこの年、一番の目的は高橋由伸を〝新4番〟として一から鍛え直してもらうことにあった。
もうひとつの目的が、当時の打撃コーチ・吉村禎章(現国際部長)に、中西さんの指導法を学ばせること。「キャンプで中西さんの一挙手一投足を見て勉強するように」と、原監督は吉村コーチに厳命していたという。
そんな中西さんと巨人との縁の原点は、やはり藤田さんとの絆にある。ともに四国出身で、かたや中西さんは高松一高1年から「怪童」と称されていた長距離砲。2歳年上の藤田さんは、愛媛県新居浜市出身で西条北高の主戦投手だった。
当時の藤田さんは絶妙のコントロールを誇り、さしもの怪童・中西さんも四国の大会などで対戦するたびに打ち取られていたそうだ。高校時代からプロまで、時に敵として戦い、時に味方として協力し合ったふたりが、ともに鬼籍に入った。今ごろは天国で昔話に花を咲かせていることだろう。















