【平成球界裏面史 近鉄編②】平成14年(2002年)オフ、FA市場は大きく動いた。巨人・松井秀喜のヤンキース移籍が最大のトピックだったが、それにリンクする形で近鉄・中村紀洋の去就にも注目が集まった。
中村は11月5日FA宣言。「移籍しようと思ったから宣言した」と、まずは近鉄からの移籍を前提とした宣言を表明した。
その上で「オファーがあった球団とは、しっかり話をして、入団するか、他の選択肢を選ぶかという返事をしようと考えていた」と、特に意中の球団を定めない形の方向性を決めていた。
ただ、静かに今後の野球人生を考える時間など与えられるはずはなかった。関係者の情報では、中村は巨人から5年50億ともいわれる破格のオファーを提示された模様だった。だが、その一方で巨人サイドから早期の決断を促され、不信感も抱いていたという。
というのも巨人はヤクルト退団が確実だったロベルト・ペタジーニの獲得も同時進行で画策していたからだ。結果、11月11日にヤクルト退団を発表したペタジーニが、同19日までに巨人入りを決断。その時点で中村は阪神、メッツからのオファー二択という形になった。
「日本人初の内野手メジャーリーガーとなるなら挑戦してみよう」。そう考えていた中村は代理人を通じ、メッツとの交渉を進めた。その間も阪神はあきらめず、浪速のアーチストにラブコールを送り続けた。その去就が連日、関西スポーツ紙の一面を飾るという異常事態だった。
当時はこんな逸話も残っている。阪神・星野監督が秘密裏に中村との交渉を進め、取材陣との混乱を回避するよう画策。交渉場所のホテルの地下駐車場から、タクシーのトランクに隠れて脱出するという映画のような行動も見せた。
中村、星野監督が車で移動となればバイクが尾行を開始し、目的地に到着すると取材陣が待ち伏せという状態。スター選手の宿命、〝有名税〟という見方もあったかもしれないが、20代後半の若者であった中村に余裕などあるはずがなかった。
メッツ入りを本線に交渉を継続。並行して阪神への断り、近鉄へのこれまでのお礼という段取りを模索している段階だった。阪神への返答をあせらせるつもりなどなかったが、関西では「阪神を選ばないのは悪」「決断を先延ばしにし、条件をつり上げている」「もてあそぶな」などと決断を急かす雰囲気さえ漂っていた。
そこへ最悪のタイミングでスクープが流れた。12月19日までに700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでメッツと契約合意。20日にそれがメッツの公式HPに掲載され、NHKのニュースでも報道された。
おりしも大阪市内で近鉄・梨田監督ら首脳と残留への最終交渉を行っている最中だった。ここで近鉄に断りを入れ、さらに阪神にも断りの連絡をという段取りで進むはずだった。
正式な断りを受けていない状況でニュースを知った星野監督から、中村の携帯に何度も着信があった。だが、近鉄関係者との交渉の席で電話を取れるはずもない。携帯画面には「星野・星野・星野」と着信がズラリと並んだ。交渉の席では近鉄から残留してくれの一点張り。まさにカオスだった。
「正直、そっとしていてほしかった」
これが当時の中村の本音だ。
過去の話を持ち出して当時の出来事を再検証しても意味はない。ただ、メジャー移籍に関する一般的知識が現在と大きく違う2000年代前半、若き才能の人生は大きく変わることとなった。
メッツ入りが白紙となり近鉄残留。これだけでも波乱だ。が、まだまだ中村の混沌とした野球人生は続いていくのだった。


















