【平成球界裏面史 近鉄編⑯】平成16年(2004年)の近鉄消滅から中心打者・中村紀洋が選んだのは米球界挑戦という道だった。
ただ、マイナー契約という高いカベに阻まれ、05年シーズンのほとんどを中村は3Aラスベガスで暮らすこととなった。
マイナーでの101試合、22本塁打という数字をどう評価するのか。これに関しては分かりやすい物差しはない。
もう1年、MLBで活躍する夢を追いかけるのか。あるいは06年から日本球界復帰のオファーを受けたオリックスへの移籍を決めるのか。
近鉄入団時の監督で、1年目から一軍に抜擢してくれた仰木彬監督からも直接、ラブコールを受けたことが、オリックス入りを大きく後押ししてくれた。
中村のメジャー挑戦は失敗だったとする世評が多かったこの当時、仰木監督は「近鉄時代に稼いでいた年俸を下げてまでアメリカに渡って夢を追ったんだ。立派なもんやないか」と褒めてくれた。
だが、心残りは恩師の仰木監督に会えなかったことだ。合併初年度の05年にオリックスは4位となり、仰木監督は高齢と健康状態の悪化を理由に勇退。球団シニアアドバイザーへの就任が発表された。ところが、就任から2か月後の12月15日に逝去。中村の入団発表はその1週間後の12月21日だった。
翌06年1月21日にはスカイマークスタジアムで「天国に送る会」が行われた。仰木氏の夫人とは電話で連絡を取り「(中村が)頑張ってくれることで(仰木氏が)一番喜んでくれるはず」と激励を受けた。
04年の分配ドラフトからドジャース入団までのわずかな期間、在籍していたオリックスへの復帰。推定年俸2億円プラス出来高払い5000万円の単年契約だった。背番号は愛着のある「3」と「5」を足して「8」となった。
このオフのオリックスは中村に加え、巨人を退団した清原和博も獲得した。中村から見れば6歳年上の清原。その存在は、少年時代の中村にとってはあこがれだった。同じ大阪生まれであり、小学生時代は甲子園へ応援にまでいったというファンだ。
「何とか2人で関西の野球熱を高めていきたい」。大阪が産んだアーチストが地元に集結する。仰木監督の遺志を継ぐスラッガー2枚看板「NK砲」のオリックス入りは球界の話題にもなった。
06年春季高知キャンプ中に阪神OBで野球評論家の川藤幸三氏、清原、中村による三者対談が、よみうりテレビとデイリースポーツの共同制作で行われたのも懐かしい。この席で清原が「呼び方はキヨさんでええよ」と持ちかけても、頑なに中村は「清原さんとしか言えません」と話したことが印象に残っている。
ただ、この大補強が結果につながったかといえば…。「NK砲」が揃って活躍できたことは皆無。06年シーズンも中村は苦境の中、プレーすることになってしまう。
















