【平成球界裏面史 近鉄編⑰】帰る家を失った近鉄OBの中村紀洋は平成17年(2005年)オフ、米球界挑戦を1年で終え、NPB復帰を果たした。
ドラフト時の監督でもあった仰木彬監督の熱意に応える意味もあった。ただ、入団するときに恩師の姿はこの世にはなかった。
それでも平成18年(06年)は巨人から移籍した清原和博氏とともに「NK砲」を結成。関西出身のレジェンド揃い踏みの2枚看板は大きな話題を誘った。
ただ、シーズン本番では振るわなかった。中村は開幕前に右足肉離れを起こし、4月28日には左手親指を捻挫。さらに5月13日のヤクルト戦で木田優夫から左手首に死球を受け負傷した。その後も負傷箇所をかばいながら打席に立つ間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなった。
同じく清原も死球禍や左ヒザの故障などで欠場が目立った。そんな中「清原さんが休んでいる時に自分も休むわけにはいかない」と中村は奮起。強行出場を続けた。
そんな中、8月11日のソフトバンク戦で斉藤和巳から左ヒジに死球。試合途中での欠場となり、この時点で中村の06年シーズンは終了した。
中村は9月中に古傷でもある左手首の手術に着手。これは翌シーズン、オリックスの戦力として開幕に合わせ、コンディションを整えるための早期決断だった。
NPB復帰1年目は85試合に出場にとどまった。打率2割3分2厘、12本塁打の数字も納得のいくものではなかった。チームも前年を下回る5位に低迷した。
オフに臨んだ契約更改交渉では、球団から減額制限を超える年俸2億円から60%減の8000万円(推定)の単年契約の提示。「自分は戦力として必要とされていない」と判断した中村は、球団に自由契約を申し入れた。
だが、中村の意思は〝無視〟された。「来年もクリーンアップを打ってほしい。戦力として考えている。ただ、現在の提示金額で必要としている」と、当時の球団関係者は説明した。ただ、こんな主張など現在は認められるはずはないのだが…。
そうする間に交渉は長期化。世間の見方では中村が金銭的条件で譲らず、ゴネているというイメージが広まった。
プロ野球協約上は明記されてはいないが、減額制限を超える金額提示をされた場合、選手が同意しない以上、球団はその年俸のままでは契約できない。
この場合、基準内まで年俸を上げるか、基準内の年俸を保証する他球団にトレードするか、自由契約にするという選択肢がある。だが、当時のオリックスは速やかに3つの選択をせず、「必要としている」との主張を繰り返した。
基準を超える減俸は実質戦力外とみなされるはず。だが、トライアウトに間に合う11月30日を越えても交渉は続いた。平成19年(07年)1月12日までに6回の契約交渉が行われたが合意に達せず、ようやく中村の退団が決まった。
だが、新布陣が固まったこの時期から中村を獲得する球団など現れるはずもなかった。

















