【プロレス蔵出し写真館】先日17日、エンゼルス・大谷翔平の珍しいシーンがユーチューブで捉えられた。大谷はベンチでオホッピー捕手に、背後からスリーパーホールド(動画のタイトルはヘッドロックと誤認)を決めていた。右腕で首を絞め、左腕でロック。大谷の完璧な絞め方に思わずニヤついた。

 スリーパーホールドといえば、アントニオ猪木が晩年〝魔性のスリーパー〟として多用したが、オールドファンには〝AWAの帝王〟バーン・ガニアの得意技として有名だ。

 ガニアは、今から53年前の1970年(昭和45年)2月1日国際プロレスに初来日。日本初のAWA世界ヘビー級王座防衛戦を行った。5日大阪、6日東京体育館でストロング小林(写真)、9日盛岡でグレート草津の挑戦を受け、いずれも1本目にスリーパーを決めギブアップを奪うという試合展開。絞め上げる写真は力強く、印象的だ。

アンドレ(左)と初対面したガニア(70年2月、国際プロレスジム)
アンドレ(左)と初対面したガニア(70年2月、国際プロレスジム)

 そして、ガニアはアンドレ・ザ・ジャイアントを育て上げたことがエピソードとして知られる。初来日した翌日(2日)、東京・渋谷の国プロのジムで公開練習に臨んだ際、練習を見学していたアンドレ(当時はモンスター・ロシモフ)と初対面。その巨体に目をつけたガニアは後に米国に呼び寄せ、レスリングのイロハを教え込み、怪力だけに頼っていたアンドレをグラウンドレスリングもできる〝大巨人〟に作り変えた。
 
 そのアンドレとは、75年8月9日WWWF(後にWWFからWWE)のニューヨークMSG大会で〝師弟タッグ〟が実現した。ジミー&ジョニーのバリアント兄弟を軽く一蹴している。

 ところで、84年3月5日、東スポは日本テレビのスタッフとミネソタ州ミネアポリス郊外のミネトンカ湖畔に建つガニアの邸宅を訪問した。この日の気温は零下15度。屋根はスッポリ雪に覆われていた。

 約7400坪という広大な敷地には牧場と馬屋もあり、12頭の馬を飼育。ここにはリングもあり、アマレスの選手を育てていると教えてくれた。約7億2000万円かけたという自宅は12の部屋があり、一階のゲストルーム、二階のリビングに栄光に包まれたトロフィー、カップ、パネル写真が所狭しと飾られてあった。ガニアは数々の防衛を重ねたAWAのベルトを手にポーズをとってくれた。

 機嫌の良かったガニアだが、プロレスの話になると一変「(ハルク・)ホーガンは絶対に許せない。奴は平然と裏切りWWFに走った。我々は信頼に基づいてビジネスを行ってきたのに」。怒り心頭だった。

数々の防衛を重ねてきたベルトを披露するガニア(84年3月、ミネアポリス郊外の自宅)
数々の防衛を重ねてきたベルトを披露するガニア(84年3月、ミネアポリス郊外の自宅)

 ガニアが親友と語っていたビンス・マクマホンから息子のジュニアに代替わりしたWWFは様変わりした。83年末にホーガンを引き抜いて84年から全米侵攻を開始すると、AWAは影響を受け低迷し始めた。ホーガンだけでなくレスラー、ブッカーらスタッフも引き抜かれ、結局、91年にAWAは崩壊。

 ガニアはミネアポリスにビルを借り、ボクシングとレスリングのジムを営んでいたが、ビルの使用料を8か月滞納。抵当先のミネアポリス・ノースウエスト銀行がガニアを告訴したことで93年8月13日、ガニアは自己破産した。

 そして09年1月、とんでもないニュースをFOXスポーツが伝えた。認知症を患い高齢者の介護施設に入居していた82歳のガニアは、同じ施設の住人である97歳の男性と口論になりケガを負わせた。その男性は2月に死亡。認知症ということもあり、ガニアは殺人罪には問われず刑事告訴されることはなかった。

 それにしても、まさかガニアが栄枯盛衰ともいえるような事態に陥るとは思いもしなかった。公には06年のWWE殿堂入りでスピーチする姿が最後の映像。ダンディーなガニアの姿が見られたのは、せめてもの救いだった(敬称略)。