【プロレス蔵出し写真館】ブルーザー・ブロディは〝超獣〟と言われる一方で、〝インテリジェンス・モンスター〟〝哲学獣〟〝プロレス界のイエス・キリスト〟などさまざまな異名で呼ばれた。テレビ朝日で実況していた古舘伊知郎アナがそう呼んでいたと思うが、なるほど言い得て妙だと感心したのを覚えている。

 今から38年前の1985年(昭和60年)3月、ブロディが新日本プロレスのリングに初めて登場し、アントニオ猪木と対峙したあと古舘アナのインタビューに答え、「Chain is Symboric My Sprit(チェーンは魂の象徴)」と語った。いつだったか、チェーンは守護神と言っていたこともあった。

 入場時、いつも振り回していたチェーンが単にお客を威カクしていただけではなかったというのは新鮮な驚きだった。

〝いつか、ブロディとチェーンの象徴的な写真を撮ってみたい〟その思いを強くした。

 それが撮れたのは同年10月15日の金沢大会の試合前。ブロディは快諾してくれ、チェーンをジッと見つめた(写真)。

 ブロディは79年1月に全日本プロレスに初来日し、日本に慣れるにつれ、取材には非常に協力的だった。新日本に移籍してからも、猪木とのシングルマッチに向けての絵づくりでは、こちらの意図を理解してくれて、さらにその傾向は顕著になった。

写真誌を手にカメラを見つめるブロディ(87年11月、フェリー船中で)
写真誌を手にカメラを見つめるブロディ(87年11月、フェリー船中で)

 プロモーターには扱いにくいレスラーとレッテルを貼られていたが、マスコミへの対応は真逆。インタビューにも快く応じてくれた。

 ただ、本紙記者が自伝(ブロディ物語)を書きたいと打診すると、穏やかな口調で「君が英語に堪能で、私の言ったことを完璧に理解できるなら、そのリクエストに応えられる。しかし、そうじゃない。だから、それは勘弁してもらえないか」と、申し訳なさそうに返答。「そりゃそうだよな」。私とその記者は顔を見合わせ納得した。

 86年2月6日、カンザス州カンザスシティでリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦したブロディを取材したときのこと。試合後、控室に行き「Good Fight」と声をかけると、鼻で笑って「本当か? (ミスター)高橋もいつもそう言ってた」と、こちらの顔をうかがう。「いや、本当にそう思ったんだ」そうむきになって反論したが、猜疑心は強かったという印象も、今では懐かしい思い出となっている。

プエルトリコマットで戦うブロディ(84年12月、バイアモン)
プエルトリコマットで戦うブロディ(84年12月、バイアモン)

 さて、チェーンとブロディの写真は当日の紙面に載ったが、その後も予期せぬ場面で使われることとなった。

 88年7月16日、ブロディはプエルトリコのバイアモンでの試合前、シャワールームでレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスにナイフで刺され、翌17日に大量出血が原因で死亡。事件を詳報した本紙1面で使用された。

 このおぞましい事件は、本紙で08年に「死の真相」と題して連載。WWCオフィスとの金銭問題でのあつれき、ダニー・スパイビー売り出しへの不満、WWCをWWEへ売却を計画した等々、関係者によってさまざまな説が語られた。

 この連載前に、興味深い話を聞かせてくれたのはIWAジャパンで来日していたビクター・キニョネス。声をひそめ「ブロディが差別的なことを言った」。

 日本でも法案が国会提出される方向で調整されているLGBTと言った方がわかりやすいだろうか。体を複数回刺されるなど、ホセは相当キレたのだと想像されるが、いずれにしても真相はやぶの中だ。

 ところで、ブロディの自宅を訪問したことのある本紙記者は家族を紹介され、一緒に食事したりもしたが、ブロディは家族の写真撮影は許可しなかった。ブロディは「もし雑誌に出ることがあったら命をやる。バーバラ(夫人)、ジェフリー(長男)が日本のマスコミに出るのは東スポが最初だ」。そう固く約束したという。しかし、自分が非業の死を遂げ、はからずも家族がマスコミに登場するという皮肉な結果となってしまったのだ(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る