【プロレス蔵出し写真館】「第73回さっぽろ雪まつり」が2月4日から開幕した。かつて新日本プロレスは雪祭り期間中に興行を開催していて、レスラーを連れ出し写真撮影するのが定番だった。

 今から35年前の1988年(昭和63年)、中島体育センターそばに〝皇帝戦士〟ビッグバン・ベイダーの雪像が登場した。ベイダーの札幌初登場に合わせて制作されたもので、地元・北海学園プロレス観戦同好会の2人の学生による手作り感満載の力作。1日4時間かけ、10日で仕上げたという。目には懐中電灯を埋め込み、人が通ると目が光るというすぐれもの。2月7日の試合前に本人を連れて行くと、満足げにポーズをとってくれた(写真)。

 この日、ベイダーはアントニオ猪木と3度目の一騎打ち。1月4日、後楽園ホールで行われた2度目のシングル戦は、ベイダーが全身を奇抜なコスチュームで覆い、マスクをかぶって登場。ベイダーがボディースラムで抱えた猪木の足がタイガー服部レフェリーに当たったとして、ベイダーが反則負けという結果に終わっていた。

奇抜なコスチューム姿のベイダー(88年1月、後楽園ホール)
奇抜なコスチューム姿のベイダー(88年1月、後楽園ホール)

 この日は、試合が白熱しかけ、猪木がエアプレンスピンの体勢で担ぎ上げそのまま2人は場外に転落。すると、どこからともなく海賊亡霊(後にガスパー)が現れ、白粉を猪木に投げつけた。リングサイドが白煙に包まれる中、わずか7分29秒、両者リングアウトの裁定。

 海賊亡霊は前年の3月、大阪城ホールで観客の大暴動を引き起こして以来、約11か月ぶりの出現。一歩間違えると、大阪城の二の舞いだったが、北海道のファンは寛大だ。新日プロの札幌大会は〝予告編〟とファンから揶揄されてもいて、試合を壊されることに免疫ができていた。「ストロングスタイル」を標榜していた新日本プロレスだが、この当時は見る影もなかった。ベイダーもどこかキワモノ扱いだった。

 さて、TPG(たけしプロレス軍団)の刺客としてベイダーは87年に初来日したが、マスコミに配られた資料は鎧姿のイラスト写真のみ。顔はおろか正体は両国大会まで一切秘密扱いだった。成田空港の到着ゲートで待ち構えたが、それらしい人物を探すのにかなり往生した。そうこうしていると、ずんぐりむっくりのサングラス姿の外国人が…。声をかけると本人だったが195センチ、150キロという割には、それほど大きさを感じさせなかった。ところが、12月27日にリングインすると、その姿が大きく見え、そのギャップに驚かされた。

 当時はインターネットがない時代。欧州でブル・パワーを名乗っていたベイダーをマサ斎藤がスカウトしたという話も、本名がレオン・ホワイトというのも、ずいぶんたってから知った。本名を聞いて、「あっ、あのときの…」。

バトルロイヤルで奮闘するベイダー(86年1月、米イリノイ州ピオリア)
バトルロイヤルで奮闘するベイダー(86年1月、米イリノイ州ピオリア)

 それは、来日する前年の86年1月30日、米イリノイ州ピオリアの観衆600人ほどの高校体育館で、クラッシャー・ブラックウェルと組んだタッグマッチ、そしてバトルロイヤルに出場したレオン・ホワイトを撮影していた。パワーだけは目に留まったものの、まったく記憶に残っていなかった。

 初来日で暴動騒動を起こすきっかけにもなり、ファンからは敬遠されていたベイダー。しかし、来日を重ね日本のスタイルに順応すると、そのファイトぶりがファンから支持された。そしてIWGP王座、全日本プロレスでは3冠ヘビー級、UWFインターではプロレスリング世界ヘビー級王座を奪取。

 ベイダーは名実ともトップ外国人レスラーの一人だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る