1日に死去した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)が最も輝いたとされる1980年代。新日本プロレスの「黄金時代」の裏では、迷走期もあった。元猪木番記者が〝昭和〟の燃える闘魂を振り返る第10回では、当時の新日本を揺るがした悪夢の暴動事件を振り返る。
私が担当していたころ(86~89年あたり)の新日本プロレスは「迷走の時代」だった。86年の主な事件を羅列する(だいぶ主観が入っているが…)。1月、兵庫・豊岡大会で星野勘太郎さんと前田日明がリング上で伝説の壮絶な殴り合いの末、控室殴り込み事件が勃発。2月は猪木さんと前田の一騎打ちを一度は発表しながら取りやめ。4月には、その前田がアンドレ・ザ・ジャイアントと不穏試合。6月には猪木さんが写真誌に女性と一緒の写真を撮られ丸坊主に。10月は猪木さんが元ボクシング世界王者レオン・スピンクスと大凡戦。年が明けた1月には熊本旅館破壊事件が起きた。
こうやって振り返っているだけでも目まいがするが、87年3月26日の大阪城ホールでの暴動は印象深い。海賊男の乱入で猪木さんとマサ斎藤さんの試合がぶち壊しになったことに怒ったファン約3000人が帰らず、イスを積み上げ火をつけた、あの暴動だ。
試合後の新日本の控室はお通夜のようだった。静かだけにファンの怒声もよく聞こえる。それがだんだん大きくなってくる。猪木さんは視線を落とし、口をつぐんだままだ。そこに、どこかの記者が思わず吹き出してしまいそうな質問を浴びせた。「猪木さん、マットは硬かったですか」
大暴動が起きているのだ。マットが硬かろうが軟らかろうがどうでもいいことで、それをこの惨澹たる状況で一番に聞くことではない。猪木さんも黙っていると、くだんの記者、何と同じ質問を繰り返した。「マット、硬かったですか」
すると、それまでしおれていた猪木さんが「ダッ!」とか「カッ!」とかいう奇声とともにはね起きた。そのまま白ブリーフ一丁で控室のドアに突進。そしてレスラーたちが止める中、ドアを4分の1ほどこじ開け「お前ら、文句があるんなら俺が勝負してやる!」と向かっていこうとするではないか。
見ると、ドアの向こうは暴徒と化したファンが鈴なりになっていた。止めた一人である船木誠勝は「パンツ一丁で怒ったファンの中に突っ込んでいこうとするんですからね。すごいですよ」と後年話していたが、猪木さんも相当むしゃくしゃしていたのだろう。おかげで原稿は書いても書いても終わらず、大阪城ホールを出たのは日付が変わるころだった。
その年の暮れ、今度は両国国技館で暴動が起きた。TPG(たけしプロレス軍団)だ。そこで猪木さんは怒り狂うファンに向かって「みんな、ありがとう」とリングからトボケたあいさつをぶっ放し、火に油を注ぐことに…。大阪城ホールでのどこかの記者と変わらないトンパチぶりだった。
その後も新日本プロレスは次から次へと事件が起こる。私は担当を外れるまで振り回され続けたのだった。
(元プロレス担当・吉武保則)












