【プロレス蔵出し写真館】「大仁田 肺焼けこげ」東スポの1面に衝撃的な見出しが踊った。日本マット史上初のファイヤーデスマッチは、生命にかかわる危険なデスマッチだった。

 今から31年前の1992年(平成4年)5月6日、FMWは兵庫・ニチイ三田店特設リングで大仁田厚&ターザン後藤組VSザ・シーク&サブゥー組の「ノーロープ有刺鉄線トルネードタッグ・ファイヤーデスマッチ」を行った。荒井昌一リングアナが「今回はレフェリーストップが認められないため、試合中どんなアクシデントが生じても決着がつくまで試合が続行されます」そうアナウンスすると、5011人(超満員札止め)で埋まった会場からは大歓声が上がった。

 ところが、そうはならなかった。

あわてて避難する大仁田とシーク。中央は後藤(92年5月、兵庫・三田)
あわてて避難する大仁田とシーク。中央は後藤(92年5月、兵庫・三田)

 有刺鉄線に設置された、布が幾重にも巻かれた木材にタイマツで火がつけられると、あっという間に勢いが強まり一気にリングの周囲は激しい炎に包まれ、火柱が上がった。大仁田がシーク、後藤はサブゥーともみ合っていたが(写真)、リング中央は200度以上の高温。そして、空気の昇華による酸欠状態に陥った。試合開始わずか1分弱でサブゥーが外に避難。それに続き、残りの3人、伊藤豪レフェリーも次々と逃げ出したのだった。

 この木材に巻かれた布は綿100%。灯油をかけると予想以上に吸収され、準備した54リットルの灯油が空になり、急きょ追加注文して計100リットルもの灯油がかけられていた。そのため、周囲はむせかえるほどの異臭が漂っていた。

 この木材をリング4面の有刺鉄線の上段に2本、中段に1本設置。灯油の量が増えたため、4器用意していた消火器は7本に増やされ、消火用ポリバケツも大小27個に増量された。驚くことに、この舞台装置の総経費はわずか約30万円だったという。

 午後8時50分過ぎにデスマッチのリングが完成。午後9時、大仁田と後藤が有刺鉄線の下から転がり込んでリングイン。シークは短いタイマツを持ってリングに入った。大仁田がシークのタイマツを蹴り、シークにチョップを叩き込むとタイマツがリング下に転がり落ち、これが合図となってゴングが鳴った。

 さて、燃え盛るリングから全員避難したあとは、マットに引火する恐れがあるため消火作業が行われたが、4人は果てしない場外乱闘を展開。試合は結局、4分31秒でノーコンテストに終わった。

リングの周囲は激しく燃え火柱が上がった(92年5月、兵庫・三田)
リングの周囲は激しく燃え火柱が上がった(92年5月、兵庫・三田)

「炎の勢いが強くて、客席からリングの中はまったく見えませんでした。場外乱闘になったから近くに行って見てました。熱風を感じましたね」

 ナマ観戦していた本紙・制作部のYが、興奮気味に当時を振り返った。 

 場外で大仁田に火炎攻撃を見舞うなど存在感を見せつけたシークは、左肩からヒジにかけて明らかにヤケドと思われる水ぶくれができていた。その範囲が背中まで広がったため、救急車で会場近くの救急病院に運ばれた。タテ30センチ、ヨコ20センチにわたり皮膚がはがれ落ちたケロイド状態に「第2度の火傷」と診断され、投薬と痛み止めの治療を受けた。

 医師から、翌日の試合を欠場して都内の大学病院での再検査と入院加療を勧められたシークだが、勧告を拒否して、患部に塗り薬をタップリつけたガーゼを当て、包帯で固定して8日に帰国してしまった。

 その後もFMWに来日したが、欠場を何度か繰り返すなど体調が不安定な様子。そして8月、米ミシガン州ランシングで吐血して緊急入院した。医師は「腎臓の機能障害で輸血が必要」と語り、一時は呼吸困難になり危篤状態にも陥った。66歳のシークにとって、重度のやけどが吐血の遠因ともいわれた。

 ところで、ファイヤーデスマッチでは下段に有刺鉄線はなかった。これは試合前、荒井リングアナが「今日は一番下は空けておきましょう」と指示したから、とユーチューブでミスター雁之助が明かしている。果たして有刺鉄線があったら、スムーズに避難することができたかどうか…。荒井リングアナの好判断で大惨事が避けられた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る