【プロレス蔵出し写真館】ターザン後藤の死去には大変驚かされた。今年1月、日刊ゲンダイの「あの人は今こうしている」で近況を知ったばかりだったから。

 後藤はFMWでの活躍が顕著で、いつからか〝鬼神〟のニックネームで呼ばれた。

 後藤(本名・後藤政二)は、今から41年前の1981年(昭和56年)2月19日、福島・霊山町(現在は伊達市)で越中詩郎の胸を借りてデビュー。試合が始まる前、売店にいたジャンボ鶴田から太ももを掴まれ、〝この程度でデビューするつもり?〟とばかりにダメ出しされる後藤の姿があった。17歳の後藤はいかにも子供子供していて、〝いじられキャラ〟だった。

 そんな後藤が地元に凱旋したのは83年8月23日の静岡・島田市島田駅北口広場特設リング大会。友人、知人も応援に駆けつけた会場は、満員の3200人で埋まった(主催者発表)。

 試合前は、「デビュー戦の時より上がっています」とかなり緊張した面持ちだったが、冬木弘道(後のサムソン冬木)にフライングボディープレスを決めて勝利を収めた。両親、姉の洋子さんから祝福され(写真)、「これで故郷に帰ってきた実感が湧いてきました」とどこかホッとした表情だった。

 この日はポスターに顔写真が載るほどの〝特別扱い〟だったが、印刷ミスだろうか名前の政二の、二の下の横線が消えていて、〝島田市出身 後藤政一〟になっていたのはご愛敬だった。

 この年、後藤は83年度プロレス大賞新人賞を受賞した。そして、勢いのそのままに85年11月に海外武者修行に出発。

 米カンザス地区で奮闘する後藤を取材したのは翌年の86年2月だった。後藤は1DKの木造アパートで自炊生活をしていた。いつもおにぎり持参で、佐藤昭雄の車に同乗して試合会場へ向かうと話してくれた。7日のアイオワ州デモイン大会は男女ミックスドマッチが組まれ、女子レスラーのアテナとタッグを結成。好連係を見せて勝利を挙げた。アテナは、後に結婚することになるデスピナ・マンタガスのここでのリングネーム(後に日本で夫婦タッグも結成したが、離婚)。

 ところで、3月にプエルトリコのサンファンで、当時ジャパンプロレス所属だった馳浩と新倉史祐を取材した時のこと。

 後藤を取材したことが話題になり、新倉が「今から後藤さんに電話してみましょうよ」と盛り上がった。そして、「(ジャイアント)馬場さんを名乗ってコレクトコール(電話を受けた側が料金を払う)でかけましょう」。イタズラを仕掛けようというのだ。我々は、あとから高額料金の請求がきて驚く後藤を想像して、ほくそ笑んだ。
 
 コレクトコールは、地域によって電話を取った相手の声が聞こえることがあったのだが、オペレーターが後藤に繋ぐと、電話に出た後藤が「えー!? 馬場さん? 馬場さん…」とうわ言のようにつぶやくのが聞こえてきた。結局、後藤は電話を切ってしまい、イタズラは失敗に終わった。

 さて、後藤はこの年の10月、シャーロッテ郊外ムアーズの「ネルソン・ロイヤルジム」で馬場指導のもと、デビュー前の最終調整を行う輪島大士の練習台になった。それからテネシーへ転戦するが、ここを最後に後藤はプッツリと消息を絶った。

 姿を消した後藤をキャッチしたのは2年後の88年11月、タンパのグレート・マレンコ道場だった。後藤はマレンコ指導のもとスパーリングに汗を流していた。

「一時はプロレスをあきらめ、タンパの日本食レストランでコックをしてました。でも、プロレスの道をあきらめきれず、バイトをしながらマイク・グラハム、スティーブ・カーンが旗揚げした新団体にスポット参戦しています」と後藤は明かした。

 コレクトで電話をかけた件のいきさつを話すと、「あぁあの電話…。(オペレーターが)何を言っているのかわからないから、切っちゃいました」(後藤)。

 後藤は、翌89年に大仁田厚にFMW参戦を直訴する形で旗揚げに参加。FMWでは若手の江崎英治(後のハヤブサ)、本田雅史(後のミスター雁之助)らを育て、女子部のコーチも務めた。選手からは鬼コーチと恐れられたようだが、その実、朴訥で気のいい男だった。

 58歳で逝くのは早すぎた。謹んでご冥福をお祈りします(敬称略)。