【プロレス蔵出し写真館】今から39年前の1984年(昭和59年)5月8日、ジャイアント馬場が東京・六本木の全日本プロレス事務所で行った会見で、大仁田厚の復帰が本人同席のもとで発表された。大仁田は前年の83年4月20日、東京体育館で左膝蓋骨(しつがいこつ=ヒザの皿)複雑骨折の重傷を負い、4回の手術を受けてリング復帰を目指していた。
会見が終わると、まるで小さな子供にするかのように、馬場は大仁田の頬をやさしくつまんで激励した(写真)。この写真を見ると「馬場さんから養子にならないかと言われたことがある」と、大仁田が後に明かした話も納得がいく。
大仁田が骨折したのは、ヘクター・ゲレロを挑戦者に迎えたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座防衛戦。ジャーマンスープレックスホールドでフォール勝ちしたが、スッキリ決着したにもかかわらずヘクターが突っかかり、試合後、互いに流血しての乱闘に発展した。それが終わり大仁田はエプロンで観客の声援に応え、リング下にポンっと飛び降りた。
反対側から写真を撮っていた私は、飛び降りてから不意に姿が見えなくなり、姿を現さないので何が起こったのか瞬時に判断できないでいた。
あわてて駆けつけると、大仁田はうつろな表情、ぼう然とした様子で立ち上がれないでいた。周りに話を聞くと、飛び降りた時にコケて床にヒザを強打したという。結局、マットを担架代わりに冬木弘道(後のサムソン冬木)、ウルトラセブン(高杉正彦)らによって運び出された。
救急車を待つ間、控室前に寝かされ左ヒザのサポーターが外されると、異様に骨が飛び出ていて〝大変なケガ〟と即座に認識できるほど。悲惨な光景だった。
大仁田は復帰会見を行った翌日、世田谷区砧の道場で練習を公開。馬場も道場入りして稽古をつけるという優遇措置がとられた。
1年1か月ぶりとなる5月18日、千葉・流山大会で復帰を果たした大仁田だが、その後はヒザの調子が芳しくなく、同年12月2日「王座奪取に失敗したら引退」と公約してマイティ井上のNWAインター・ジュニア王座に挑戦し、回転エビ固めで敗れ、引退を宣言したのだった。
89年にFMWを設立してプロレス復帰した大仁田が〝涙のカリスマ〟となり、その後、何度も引退と復帰を繰り返し、ひんしゅくを買うことになろうとは、この当時思いもしなかった。
さて、大仁田は先月4月29日、横浜・鶴見青果市場での試合後、観客の前で腹部大動脈瘤を患っていることを公表。5月9日に開腹手術を行うという。
大動脈瘤といえば、昭和の大スター石原裕次郎は今から42年前の81年(昭和56年)、胸部大動脈瘤で東京・信濃町の慶応病院に入院して大手術を受けた。写真週刊誌が望遠レンズで、屋上を散歩する裕次郎の写真を撮ってから〝2匹目のドジョウ〟を狙い、スポーツ紙が連日交代で張り込んだのが懐かしく思い出される。
資生堂「バスボン」石鹸のCMで人気だった、タレントの松本ちえこが大動脈瘤破裂で亡くなっていたのは知らなかった。
大仁田は「6月11日の郡山大会に強行参戦する」と決意を語っているが、術後1か月しかたっていない状態で大丈夫なのだろうか。「大仁田劇場」閉幕とならなければいいが…(敬称略)。













