あの日、あの瞬間、当事者は何を思っていたのか。マット界を騒がせた事件、名勝負、レスラーを再検証する「プロレス紀行」。今回は1993年2月の九州巡業中に倒れて危篤状態に陥った大仁田厚(65)の登場だ。奇跡が重なり、死の淵から生還した邪道が30年前の臨死体験を赤裸々に明かしてくれた。

【プロレス紀行(1)=大仁田厚編】大仁田の体に異変が生じたのは、ビッグ・タイトンとの一騎打ちに勝利した93年2月15日の宮崎大会後だった。高熱で呼吸困難に陥り、宮崎市内の病院でへんとう炎と診断され、ノドにたまったウミを出す切開手術を受けた。医者からは絶対安静と入院を言い渡されたが、FMWの興行は邪道抜きでは成立しない。注射と化膿止めをもらい、翌16日の鹿児島大会に強行出場する。エースとしての責任感から出た行動だが、この判断が後に命の危険にさらされる事態につながった。

宮崎大会で見せた水噴射パフォーマンス(1993年2月)
宮崎大会で見せた水噴射パフォーマンス(1993年2月)

 鹿児島ではグラジエーターとの有刺鉄線マッチに勝利したが、大仁田に試合の記憶はまったくない。控室に戻ると呼吸ができなくなり、救急車で鹿児島市立病院に運ばれた。即入院となったが、点滴や抗生物質などの効果があり、容体は安定。1週間後には退院できる運びとなったが、5日後の21日に容体が急変。呼吸不全に陥ってしまった。

「最初はへんとう炎だったが、敗血症になった。急に危篤になって、危ないからと両親が呼ばれたんだ。いま敗血症は死亡確率が40%とか言われているけど、その頃は70%死ぬって言われてたんだ。本当に危なかったんだ」

 23日には長崎から母・きぬゑさんら家族が駆け付けた。ICUで24時間態勢の看護を受けた大仁田は、熱の上昇を収めるため氷漬けの状態。10人を超える医師が懸命の治療を続けたが、回復の兆しはなかった。

「いろんな抗生剤を投入したけど、良くならない。いろいろ探してもらって東京から特別な抗生剤を取り入れてもらった。これが効かなかったら死ぬ。それが効いて良くなったんだ」。地元鹿児島の新聞社では〝大仁田死亡〟の想定原稿を用意していたともいわれ、まさに死の淵をさまよっていたのだ。

左アゴには排膿のためパイプが4本刺さっていた
左アゴには排膿のためパイプが4本刺さっていた

「臨死体験もしたんだ。農村に出掛けて麦畑を分け入った先に大きな木があった。俺は疲れたなあ~、休みたいなあ~と、その大きな木の下で寝たくなった。そうしたら、あっちから俺を呼ぶおふくろのような声がしたんだ。で、その声に振り返ったら起き上がったんだ。あのまま木の下に腰を下ろしてたら…二度と目覚めてなかっただろうね」

 ハッキリと目覚めたのが3月1日。だが、ここでも危険が待ち受けていた。点滴を全身に7、8本打っていた大仁田は蘇生して起き上がった勢いで、すべての点滴を抜いてしまったという。

「その時にたまたま宿直だった医師がその道の専門家だった。それですぐに対処できて助かったんだよ。俺は奇跡が重なり合って生き延びたんだよ」

 9日間も危篤状態だった大仁田は25日に無事退院。臨死体験までして命のありがたみを痛感した邪道は医者が命じるまま、同年5月5日の川崎球場大会までおとなしく欠場した。ちなみにこの93年時点で大仁田の引退撤回は全日を退団し、FMWを旗揚げして復帰した1度きり。その後は6回(計7度)も引退を撤回し、9日には腹部大動脈瘤の手術を受けるが、いまでも平然とリングに立ち続けている。一度死にかけた人間はしぶとくなるものだが、いやはや、たいした生命力だ。

ファンの前で道頓堀に飛び込む大仁田(1992年12月)
ファンの前で道頓堀に飛び込む大仁田(1992年12月)

 大仁田が危険な状態に陥った原因のひとつとして挙げられているのは〝道頓堀ダイブ〟だ。前年92年12月10日の大阪大会で行われたタッグリーグ決勝戦に勝った大仁田は、ミナミを流れる道頓堀に歓喜のダイブを決め、大騒ぎした。

「俺も原因はそれしかないって思ってるよ。大流血のまま飛び込んだから、傷口にばい菌が入ったんだよ。それから2日くらい高熱にうなされた。当時は風邪だと思って気にしてなかったんだけどね。バチが当たったんじゃないかな」

 と言いつつも大仁田は20年後の2013年2月に大阪で横綱・曙と電流爆破マッチを行う際「負けたら道頓堀に飛び込む」と高らかに宣言。まったく懲りない男だが、これを知った大阪府警からじかに電話で「飛び込んだら捕まえますから」と通達され、ダイブを断念したという。邪道のように三途の川を見たくない方は、道頓堀ダイブは控えましょう。