【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(14)】テレビやラジオの野球中継で、よく解説者の方が「1球で試合の流れが変わる」という話をされます。読者の皆さんも一度ぐらいは耳にしたことがあるでしょう。これは決して大げさな表現ではなく、場合によっては1球で運命が変わることもあります。実際に僕がそうでした。

 プロ2年目、1993年のことです。春季キャンプの紅白戦で1度だけ3回12安打11失点と炎上した以外は順調で、オープン戦でも“初セーブ”を挙げた3月1日の阪神戦を含めて4試合連続無失点。初の開幕一軍が視界の先に見えてきた矢先に、予期せぬアクシデントに見舞われました。あれは忘れもしない3月31日。平和台球場での練習中に外野でランニングをしていると、フリー打撃の打球がワンバウンドして、僕の左こめかみにヒットしたのです。

 福岡市内の病院に運ばれ、診察の結果は単なる「打撲」。医師にも「明日から練習に参加しても大丈夫」と言われましたが、すでに決まっていた4月2日のウエスタン・リーグ開幕戦、山口県にある由宇球場での広島戦登板は“お流れ”に。二軍の大役は2学年下の太田勝正に変更となってしまいました。

 原因が自分の不注意なので情けないのですが、世の中、何がどう転ぶか分かりません。「災い転じて福となす」で、二軍開幕投手の予定が飛んでしまった僕は、初めて開幕一軍入りを果たすことができたのです。予定通りに二軍戦で投げて打たれていたら、どうなっていたことか…。開幕一軍は名誉だけでなく、一軍最低保証年俸から自分の年俸410万円を引いた差額が日割りで受け取れるのですから、大きな励みにもなりました。

 1年目は一軍どころか二軍でも4試合、計7イニングしか投げさせてもらえなかった僕がチャンスをつかめたのは、根本陸夫監督の方針が合っていたからだと思います。前年秋のキャンプから、とにかく実戦。コーチ陣にも「教え過ぎはダメ。選手に考えさせ、体と頭で野球を覚えてもらう」と伝えていたそうで、実際に僕も「クイックなんてしなくていい。とにかく目の前の打者を抑えなさい」と言われていました。

 走者を出した際のクイック投法は大事なのですが、小さなことは気にしなくていいという方針のおかげで、心にゆとりもできました。プロの世界で1年を過ごし、環境に慣れたのも大きかったのでしょう。失敗しても落ち込むのではなく、何が悪かったのかを反省して次の登板に生かす。そういうプラス思考ができるようになったことで道が開けてきました。同学年で仲の良かった足利豊、下柳剛と一緒に開幕一軍入りできたことも、いい思い出です。