【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(12)】1992年1月、いよいよプロ野球の世界に飛び込む日がやってきました。富山の高岡駅で友人に見送られ、石川の小松空港から空路福岡へ。不安とかじゃなく、やってやるぞと勇ましくでもなく、何とも言えない気持ちでした。未知の世界へと足を踏み入れるわけですからね。母親は僕が旅立ってから、2晩ぐらい泣いていたそうです。

 かつて福岡市東区にあった合宿所には、最寄りの西戸崎駅で一緒になったドラフト6位の本田明浩捕手と福和タクシーに乗り込み、一番乗りで到着。さっそくトレーニングを始めました。まもなくスタートした新人合同自主トレは2月の春季キャンプに備えた体づくりの期間ですが、ここで早くも“プロの壁”にぶつかってしまいます。

 まず最初に驚かされたのは覚えることの多さでした。コンディショニングコーチの手塚一志さんやトレーナーの川村隆史さんの指示でメニューを消化するのですが、特にウエートトレーニングでは見ることさえ初めてのマシンばかり。以前にも少し触れましたが、僕がプレーしていた高岡第一高や社会人野球の北陸銀行では筋力トレーニングと言ったら、足を押さえてもらいながら上体を起こし、腹筋や背筋を鍛える昔ながらのスタイルしかなかったもので…。

 手塚さんや川村さんが「このマシンは、この筋肉を鍛えるためのもの」と丁寧に説明してくれても、何のことやらチンプンカンプン。知識を頭に詰め込むので精一杯でした。B組(二軍)に振り分けられた春季キャンプでも、言われたことを言われた通りにやるのがやっとという状況。右肩痛で北陸銀行を退職してからの2年間、草野球ぐらいしかしていなかったツケが如実に出た格好です。そんな中でも的確なアドバイスをしてくれる方がいました。その一人が二軍投手コーチだった藤田学さんです。あれは島根・浜田で行われた教育リーグの阪神戦での“プロ初登板”でした。いきなり先頭打者に四球を与えてしまったのですが、ベンチに戻ると「ちゃんと考えた四球だったな」と褒めてくれたのです。

 抜けたり、引っかけたりと散々な内容だったのですが、抜け続けたわけでもなければ引っかけ続けたわけでもない。つまり、何とかしようとマウンド上で試行錯誤していたことを評価してもらえたのです。おかげで悪い失敗を繰り返すのではなく、違う失敗をしようと発想を転換することもできました。

 とはいえ、プロ1年目の92年は一軍登板どころか二軍でも4試合で計7回を投げただけ。シーズン中のほとんどは練習しているか、一軍の練習に呼ばれて打撃投手を務めるかという生活が続きました。