【剛腕列伝・袴田英利 村田兆治編2】現役時代に「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテ投手・村田兆治さん(享年72)は11月11日に自宅火災で死去した。「人生先発完投」を座右の銘とした名投手との突然の別れに、球界内外が悲しみに包まれた。故人は生前に数々の伝説を残しており、本紙野球面連載でも、その名はたびたび登場する。ロッテでバッテリーを組んでいた元捕手の袴田英利氏が2013年6月から計20回にわたってつづった「剛腕列伝」の中で明かしていた〝在りし日の村田さん〟を特別に再録する。
村田兆治さんを語る上で避けて通れないのが、右ヒジの手術とそこからの復活劇だろう。
私が一軍に定着できたのが入団5年目の1982年で、兆治さんが右ヒジ痛で戦列を離れる前の最後の登板が同年5月17日の近鉄戦。本格的にバッテリーを組むようになったのは手術明けの84年8月以降だが、入団1年目の78年6月6日の南海戦で初コンビを組んでからというもの、何かにつけて面倒を見てもらっていた。
私は一軍と二軍を行ったり来たりだったが、遠征先で食事に連れて行ってもらったり、世田谷区成城のご自宅に招いてもらったことも何度かあった。体つきの違いから頂いたジャケットはダボダボだったが、それを喜んで着ていたのもいい思い出だ。そんな面倒見のいい兆治さんの苦闘は壮絶なものだった。
今ではヒジにメスを入れることも珍しくなく、最近だと松坂大輔や和田毅もトミー・ジョン手術を受けている。その先駆けとなったのが、ほかでもない兆治さんだった。前例がなかったわけではないが、当時の日本ではヒジにメスを入れた投手が完全復活を遂げた例はなく、兆治さんも試行錯誤の連続だったようだ。
ヒジ痛の治療にいいと聞けば、何でも試していた。マッサージや鍼灸、整体はもちろんのこと、病は気からとばかりに、滝に打たれていたこともあった。特に忘れられないのが「マムシの毒がいいらしい」と聞いて、それを実践したことだ。医学的な根拠があったのかどうかは分からない。実際に、マムシの毒が入った注射を打った後の兆治さんの右腕は、丸太のように腫れ上がった。
「そんなばかげたことを…」と笑う人は当時もいた。しかし、兆治さんは「なんとか復活したい」という一心から、いかなることにも挑戦した。そういったいちずな思いや生きざまを、誰が笑うことができようか。
試行錯誤の末にたどり着いたのが、スポーツ医学の権威である米国のフランク・ジョーブ博士であり、左腕の腱を右ヒジに移植するトミー・ジョン手術だった。後にヤクルトの荒木大輔や巨人の桑田真澄も同様の手術を受けているが、兆治さんの第一歩がなければ、彼らが手術に踏み切ったかどうか分からない。
今では小学生の間でも当たり前になっている、登板後のアイシングにしてもそう。何事も独学で学んでいった兆治さんは「肩やヒジを冷やしてはいけない」という当時の常識を覆し、登板後には氷の詰まったバケツに右ヒジを突っ込んでいた。いずれも勝負に対する執念や人並み外れた情熱がなければできないことばかり。そんな血のにじむような努力や苦労を目の当たりにしただけに、兆治さんの完全復活には心の底から感動を覚えた。
☆はかまだ・ひでとし 1955年8月13日生まれ。静岡県出身。自動車工高(現静岡北高)から法政大へ進学。江川卓を中心とした〝花の昭和49年組〟で3年生春から4年生秋まで、東京六大学リーグで4連覇を達成する。77年ドラフト1位でロッテに入団。5年目の82年に一軍定着、84年にレギュラー奪取。89年まで正捕手を務める。90年の引退後は、バッテリーコーチとして後進の指導にあたった。












