【剛腕列伝・袴田英利 村田兆治編4】現役時代に「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテ投手・村田兆治さん(享年72)は11月11日に自宅火災で死去した。「人生先発完投」を座右の銘とした名投手との突然の別れに、球界内外が悲しみに包まれた。故人は生前に数々の伝説を残しており、本紙野球面連載でも、その名はたびたび登場する。ロッテでバッテリーを組んでいた元捕手の袴田英利氏が2013年6月から計20回にわたってつづった「剛腕列伝」の中で明かしていた〝在りし日の村田さん〟を特別に再録する。
「昭和生まれの明治男」とも言われたロッテのエース村田兆治さんは、生きざまこそ異名そのままだったが、後輩の面倒見のいい優しい人だった。忘れられない思い出は語り尽くせないほどあるが、引退試合もその一つだ。
1990年10月13日。西武を迎えての一戦は、涙雨の降る川崎球場で行われた。本来なら二軍で若手指導をメインにしていた私に出番はなかったが、兆治さんが「これまで節目の試合でバッテリーを組んだ袴田に最後も捕ってほしい」と金田正一監督にお願いして呼んでくれたのだ。そのころの私は選手として〝開店休業〟状態だったが「ぶざまな格好は見せられない」と、打撃マシンに向かってひとり黙々とバットを振ったことを今でも覚えている。
結論から先に言うと、私は兆治さんと一緒に引退するのだが、その決意が固まっていたわけではなかった。金田監督からの「一軍のコーチをやってくれんか」との申し出をお断りしたのも、選手として燃え尽きていないとの思いがあったからだった。
ただ、その年は兆治さんが登板した開幕戦でもマスクをかぶったのは若い福沢洋一だったし、夏場以降は二軍で若手の指導もしていた。客観的に見れば引退→コーチ就任は既定路線のようなもので、兆治さんの引退試合の前に、西村徳文だったか愛甲猛から「袴田さんは胴上げどうします?」と尋ねられたりもした。
試合は3回、先頭の西村が二塁打で出塁すると佐藤健一が四球で続き、愛甲の右前打で先制。さらに主砲のディアズが3ランを放って、リードを4点に広げた。そして涙雨はやむ気配もなく、5回終了と同時に4―0、降雨コールドでロッテの勝利。兆治さんは5回零封で10勝目をマークし、花道を飾った。
「喜びも悲しみも、すべてこのマウンドにありました」とのスピーチと、試合後の選手たちによる胴上げで兆治さんの体が4度宙に舞ったことは覚えている。ただ、自分が胴上げされたかどうかは覚えていない。「主役は兆治さんだから」と断ったのか、それとも現役に固執する思いがあったのか…。外野席のファンに向かって愛用のミットを投げ込んでいることからも「決意」はあったのだろうが、複雑な思いだったのは間違いない。
そんな私の心情を察してくれたのだろう。セレモニーを済ませた兆治さんは、私のそばへ来て、こう声をかけてくれた。「悪かったな」。自分ひとりにスポットライトが当たっていたことを気にかけてくれていたのだ。その気遣いだけで十分だった。
こうして私の現役生活は兆治さんの引退とともに幕を閉じた。
☆はかまだ・ひでとし 1955年8月13日生まれ。静岡県出身。自動車工高(現静岡北高)から法政大へ進学。江川卓を中心とした〝花の昭和49年組〟で3年生春から4年生秋まで、東京六大学リーグで4連覇を達成する。77年ドラフト1位でロッテに入団。5年目の82年に一軍定着、84年にレギュラー奪取。89年まで正捕手を務める。90年の引退後は、バッテリーコーチとして後進の指導にあたった。












