【剛腕列伝・袴田英利 村田兆治編3】現役時代に「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテ投手・村田兆治さん(享年72)は昨年11月11日に自宅火災で死去した。「人生先発完投」を座右の銘とした名投手との突然の別れに、球界内外が悲しみに包まれた。故人は生前に数々の伝説を残しており、本紙野球面連載でも、その名はたびたび登場する。ロッテでバッテリーを組んでいた元捕手の袴田英利氏が2013年6月から計20回にわたってつづった「剛腕列伝」の中で明かしていた〝在りし日の村田さん〟を特別に再録する。
1984年の終盤に右ヒジの手術から復帰した村田兆治さんは、翌85年に奇跡とも言える完全復活を遂げた。初登板となった4月7日の日本ハム戦こそ44球を投げたところで降雨ノーゲームとなってしまったが、仕切り直しとなった14日の西武戦で155球を投げ抜く圧巻の完投勝利。82年5月7日の日本ハム戦以来、実に1073日ぶりの勝利だった。
ファンからは惜しみない拍手が送られたが、その気持ちは私たち選手も一緒だった。いや、むしろそれ以上だったと言ってもいいだろう。約3年に及ぶ苦闘を間近で見ただけに感慨もひとしおだった。
完全復活した兆治さんは、手術によって球威が落ちるどころか、以前よりもすごみを増していた。「サンデー兆治」の異名を取ったように、登板日が毎週日曜日に巡ってきたことから、スタンドはいつでも大入りに。やはりプロ野球選手は見られてナンボだし、お客さんが多ければハッスルもする。7月7日の南海戦まで最長5連続完投を含む無傷の11連勝を飾ったのは、兆治さん自身の奮起はもちろんのこと、お客さんの熱気に後押しされた野手陣の頑張りによるところも多かった。
私も兆治さんの登板日にはいつも以上にテンションを上げて試合に臨んだものだ。何も「お客さんにいいところを見せたい」と気張っていたわけではない。それなりにテンションを上げておかないと、兆治さんの勢いに負けてしまう恐れがあったからだ。
ただ一人、ファウルグラウンドを定位置とする捕手は、常に冷静さを持って戦況を分析しなければならない立場にある。いちいち結果に一喜一憂していたら、大事なことを見落としてしまうからだ。ただし、兆治さんとバッテリーを組む時だけは例外だった。既に触れたように、ノーサインで自分のリズムで投げているのに、打たれたら「何を投げさせるんだ」とかみついてくることがあるのが兆治さん。こちらが冷めていたら、とてもじゃないが御することもままならないのだ。
こんなことを書いていると兆治さんが身勝手な人に思われてしまうかもしれないが、決してそんなことはない。自らが努力の人だけあって、努力している人を素直に認めてくれる人でもあった。
今でも忘れられないのが、89年6月1日の日本ハム戦だ。初回に二死満塁からの暴投で1点を失い、9回を完投しながら負け投手となってしまったのだが、実際は公式記録の「暴投」ではなく私のパスボールだった。試合後の囲み取材でも当然のようにその話題になったが、兆治さんが私を人前で責めるようなことはなかった。そんな優しさもまた、兆治さんの魅力だった。
☆はかまだ・ひでとし 1955年8月13日生まれ。静岡県出身。自動車工高(現静岡北高)から法政大へ進学。江川卓を中心とした〝花の昭和49年組〟で3年生春から4年生秋まで、東京六大学リーグで4連覇を達成する。77年ドラフト1位でロッテに入団。5年目の82年に一軍定着、84年にレギュラー奪取。89年まで正捕手を務める。90年の引退後は、バッテリーコーチとして後進の指導にあたった。












