【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(18)】シーズン終盤の快進撃でワイルドカードによるプレーオフ進出を決めた2007年のロッキーズは、まさに神がかっていました。その中心にいたのが松井稼頭央です。

 井口資仁を擁するフィリーズとの地区シリーズでは12打数5安打1本塁打6打点の大暴れで3連勝での突破に貢献。続くダイヤモンドバックスとのリーグ優勝決定戦でも「2番・二塁」で4試合連続安打を放つなどチームをけん引し、球団創設15年目での初のリーグ制覇をスイープで飾りました。特に印象的だったのがフィリーズとの第2戦で右腕ローシュの内角低めへの直球を完璧に捉えた逆転満塁弾です。この2年間の集大成のような理想的な打撃でした。

 残念ながらレッドソックスとのワールドシリーズでは松坂大輔が立ちはだかってスイープされてしまったわけですが、走攻守で輝きを取り戻した稼頭央の米球界での評価はうなぎ上り。オフにFAとなり、同年12月にはアストロズと3年総額1650万ドル(当時のレートで約18億円)の大型契約を勝ち取るまでに至りました。メッツでどん底を味わっていたことを考えれば雲泥の差です。

 ただ、プレーオフでの快進撃やアストロズとの契約は、日本で新聞やテレビのスポーツニュースを通じて知ることになりました。実は同年のシーズン終盤に、翌年から西武ライオンズの一軍で指揮を執る渡辺久信さんから電話で打撃コーチのオファーをいただき、11月1日からの秋季キャンプに間に合うようひと足先に帰国していたのです。

 もちろん稼頭央にも相談しました。メッツ時代の05年オフから二人三脚で始めた「再生プラン」は3年計画で考えていましたから。それでも稼頭央が「やれます」と言ってくれたので、僕は新たな道を歩むことになりました。

 かつて球団を離れるに際して、二軍監督だった渡辺さんに「俺がクビになっていなかったら、また一緒にやろうな」と声をかけていただいたことは覚えていました。しかし、まさか本当に、しかも一軍打撃コーチとして呼んでもらえるとは思ってもいなかったので、正直、驚きました。

 エースの松坂が抜けた07年の西武は66勝76敗2分けの4位で26年ぶりのBクラスに終わりましたが、既にレギュラーとしてプレーしていた中島裕之(現宏之)や片岡易之(現保幸)に加え、中村剛也や栗山巧と将来性のある年の近い若手が多くいました。しかも彼らは二軍の裏方だった僕とメッツに移籍する前の稼頭央が室内練習場でしていた“秘密練習”を見守っていた選手たち。現役時代に一軍経験のない僕がコーチとして受け入れてもらえた背景には、そんな下地もありました。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。