【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(15)】2005年オフから始まった松井稼頭央との二人三脚は、全てが順風満帆だったわけではありません。グラウンド外では常に移籍のうわさが絶えませんでした。特に毎年12月上旬にメジャー30球団のオーナーやGM、監督、スカウト、代理人、マイナー関係者らが一堂に会するウインターミーティングの前後から稼頭央の去就に関する報道はヒートアップ。いわゆる“飛ばし記事”ばかりでなく、メッツのミナヤGMも真剣に二塁手を探していたようです。実際に01年のア・リーグ打点王でツインズからFAとなっていたアーロン・ブーンとマイナー契約を結んだりしていました。

 もちろん、チーム編成は選手が口出しできることではありません。大事なのは、どんな境遇になろうとも100%のプレーができるように準備すること。しかし、うわさは現実となり、06年6月に稼頭央は交換トレードでロッキーズに移籍することになりました。

 同年はオープン戦でスライディングした際に右ヒザを痛めて開幕はマイナーでスタート。4月20日にメジャー昇格を果たして復帰初戦で3年連続となるシーズン初打席本塁打をランニング本塁打で記録しましたが、ロッキーズ移籍直後に再び腰痛で戦線離脱…。傘下の3Aコロラドスプリングスでの調整は約2か月に及びました。

 そんな悶々とした日々を過ごしている中で、ときに衝突することもありました。意見が割れたのは打撃についてです。目指す方向性では大きな違いがないのに「しっかり振るためにも、もう少し早く開いたほうがいい」という僕の考えに、稼頭央はなかなか首を縦に振ってくれませんでした。

 そんなある日のことです。2人してESPNの野球中継を見ていたら、同年に54本塁打、137打点で打撃2冠に輝くレッドソックスの主砲で左打者のデービッド・オルティスが打席に立ちました。自然と左打席での打ち方の話題になり、オルティスのスイングがスロー再生される映像を見ながら、僕はあるポイントで「見てみ、ほどいたろ?」と指摘しました。

 何の気なしに発したひと言でしたが、稼頭央は「熊さん、何て言いました?」と食いついてきました。「ほどいた…?」と返すと「それなら分かります!」。2人の打撃に関する解釈が一致した瞬間でした。

「開く」という表現には拒絶反応を示していたのに「ほどく」と言い方を変えただけで腑に落ちたのはなぜか? スペースが尽きてしまったので、種明かしは次回――。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。