【熊澤とおる人生 100年時代のセカンドキャリア(13)】2005年6月末、楽天との二軍戦で仙台遠征していたときのことでした。フルキャストスタジアム宮城(現楽天生命パーク)でのナイターに備えて仙台市内の宿舎で雑務をこなしていると、携帯電話がけたたましく鳴りました。
発信者はメッツ2年目で二塁上の交錯プレーから故障者リスト(DL、現在の負傷者リスト)入りしていた松井稼頭央。「お疲れ、どうした?」といった簡単なあいさつをすると、思いつめたような声のトーンでこう切り出してきました。
「このままだと僕は終わっちゃう。何とかなりますか?」
西武ライオンズでは、レギュラーに定着した1996年から8年連続で全試合出場を果たした稼頭央ですが、メッツ移籍後は故障の連続で1年目の出場は114試合どまり。2年目の05年は9月にも右太もも裏を痛め、87試合の出場にとどまりました。ゴールデン・グラブ賞を4度獲得した守備でも精彩を欠き、1年目の04年はホセ・レイエスとのポジション争いを制して110試合で守った遊撃で23失策。2年目は西武時代に守ったことのない二塁へと回りました。
おそらくプライドもズタズタになっていたことと思います。いみじくも稼頭央が電話をしてきたのは、こちらから「大丈夫か?」と連絡しようとしていた矢先のこと。ニューヨークはメディアもファンも厳しく、期待に応えられなかった選手へのブーイングやバッシングは容赦ありません。メッツとの契約は残り1年で、何とか立て直して輝きを取り戻したいとの思いがあったのでしょう。
そんな稼頭央の気持ちは痛いほど伝わってきました。見知らぬ土地で孤軍奮闘する仲間を何とか助けたい――。その一心で、プロ入りから14年にわたってお世話になった西武を退団することにしました。
球団職員という安定した立場をかなぐり捨てるわけですから、僕にとっても大きな冒険です。即決できたのは、他でもない稼頭央からのオファーだったから。同年9月30日付で退団し、就労ビザの取得など事務的な手続きを慌ただしく済ませ、10月末にはニューヨークへと旅立ちました。
98年限りで現役引退した僕は、二軍の用具係兼サブマネジャーとして遠征やキャンプに必要な交通手段や宿舎の手配、用具の管理、経費の処理などの各種事務手続きを身につけ、そのかたわらで個人的な向学心から運動動作や各種トレーニング法、英会話を学んできました。いずれも最初から何かを意図して始めたことではありません。しかし図らずも、その後の稼頭央との二人三脚で今までの積み重ねが役立つことになったのです。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












