【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(8)】 のちに個人トレーナーとしてタッグを組むことになる松井稼頭央と出会ったのは、1994年2月に高知・春野で行われた二軍の春季キャンプでした。宿舎となっていた桂浜の料理旅館「冨久美味(ふくみみ)」で羽生田忠克さんとともに同部屋となったのがキッカケです。何かウマが合ったというか2歳違いと年齢も近かったことから自然と仲良くなりました。

 稼頭央は1年目から別格の選手でした。例えば清原和博さんが相手でも「足の速さなら勝てる」といった点が一つはあるものですが、稼頭央にはそれがない。走攻守、全ての面で突出していたからです。

 稼頭央との米国での二人三脚については後述するとして、プロ野球の世界には常に新陳代謝があります。期待されてドラフト上位で入団しても、与えられるチャンスは無限じゃない。入団5年目の96年や翌97年には一軍キャンプに呼んでもらえるようになりましたが、結果が伴わなかったり、ホームへのスライディング時にブロックされて左腓骨を骨折したり…。

 一軍出場がないまま7年目を迎えると、あからさまに使われ方が変わりました。毎年のように新人選手が加わり、結果を残せなかった者が去っていく。こればかりは数字であらがうほかに、すべがありません。

 球団からは選手として来季は契約しないと告げられ、同時に新設する二軍の用具係兼サブマネジャーのポストを用意していただきました。選手仲間から「他球団で選手を続けたほうがいいんじゃない?」という声をもらったり、実際に興味を示してくれた球団もあったようですが、自分の中では「やり切った」という思いもありましたし、7年にわたって面倒を見ていただいた恩義もある。現役生活に未練はありませんでした。

 本連載の主題でもある僕のセカンドキャリアは25歳秋に始まりました。選手時代は日々の練習や目の前のプレーで精一杯でしたが、いざ裏方になってみると、今まで気にもしなかったことに神経を使うことになります。

 ボール一つとってもそう。プロ野球の中継を見ていると、ファウルはもちろん、ワンバウンドして土がついたり、打たれたりするとボールを新品に交換していますよね。一軍では1試合に100~120球ほど使用するとされ、それは事前に準備しておかなければなりません。遠征時に必要な宿舎や移動手段の確保に野球道具などの荷物の運搬…。現役時代に関知することのなかった「カネ」や「人」の動きを学べたことは大きな財産となりました。高校を卒業してすぐにプロの世界へ飛び込んだ僕が机に向かって勉強するようになったのも、裏方に回ってからです。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。