【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(9)】1991年のドラフト会議で西武ライオンズに3位指名されて始まった僕の現役生活は98年秋に幕を閉じました。それでもまだ25歳。人生が100年あるとするなら、4分の1が終わったにすぎません。大学で心理学の教授をしていた父からは「今からでも遅くないから大学に行け」と言われていたほどでした。
一軍出場がないまま現役を終えたことは不本意でも、人生が終わったわけではない。長さでいうなら、むしろ、ここからが本番です。僕は幸いにも球団から新設ポストの二軍用具係兼サブマネジャーの職を用意していただきました。本当にありがたいことです。松井稼頭央の個人トレーナーとして渡米するまで同職に従事し学んだことは、整骨院や野球塾を運営する立場となった現在の生活にも生きています。
ボールなどの道具の管理から、キャンプも含めた遠征には欠かせない宿舎や移動手段の確保や手配、それに伴う経費の処理などの事務手続き…。受ける側でしかなかった現役時代には想像もしなかったような煩雑な仕事は多岐にわたりました。
学ぶことの大切さを再認識したのも裏方に回ってからです。その一環として、英会話にも挑戦しました。キッカケを与えてくれたのは、僕の現役引退と時を同じくして埼玉県立所沢商高の監督を退任し、西武の編成部育成担当として球団入りした恩師の高鍋尚典さんでした。98年のドラフト1位で横浜高から入団した松坂大輔投手の“お目付け役”として白羽の矢が立てられたのです。
その高鍋先生から言われたのは「将来的にお前を渉外担当にという話があるから、今のうちに英語の勉強をしておけ」。ちなみに渉外担当とは、新外国人選手の獲得に関わる業務です。
実際に僕を渉外担当に…という計画があったのかどうか定かではありません。というのも、高鍋先生から耳打ちされた以外に誰からもそのような話を聞いたことがなかったからです。しかし、球団職員として発揮する機会のなかった英会話は、稼頭央の個人トレーナーとして渡米した際に大いに生かされました。勉強はいつから始めても遅くないし、身につけておけば何かの機会に役立つものなんですね。
ちなみに僕の勉強法は“駅前留学”で一世を風靡(び)したNOVAのオンライン授業。3~4人が1組になって会話をメインに学ぶのですが、3年ほど続けました。仕事中にもファームで調整中の外国人選手を相手に実践してみたり。そのうちテストにも興味を持つようになり、英検2級から始めて準1級までパスしました。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












