【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(14)】2004年からメッツで2シーズンを過ごした松井稼頭央は、故障続きで思うような成績を残せず、身も心もボロボロになっていました。05年オフに個人トレーナーとして契約を結び、再び稼頭央とタッグを組むことになった僕が最初に着手したのは「体を基礎からつくる」こと。ニューヨーク州内にある大学のジムやグラウンドを使って、来る日も来る日もゴロ捕やキャッチボールを繰り返しました。そうしたのは、僕なりの考えがあったからです。
2年連続で故障者リスト(DL、現在の負傷者リスト)入りする原因となったのは、二塁上でのクロスプレー。明らかにラフプレーと言えるスライディングによるケガではありましたが、いい内野手だったら防げたのではないか…というのが僕の見解でした。
西武時代の稼頭央は遊撃手として1997年、98年、02年、03年と4度のゴールデン・グラブ賞に輝いていましたが、メッツ移籍1年目の04年は遊撃で23失策。日本で試合の中継を見ていた僕には守備でブーイングを浴びている印象がありました。
そもそも天才肌で、難しい打球を平然と処理してしまうサーカスのような守備はできても、一方で目に見えないエラーやミスが多い。類いまれな身体能力から“できちゃう”タイプの選手で、きちんと基礎を教わっていなかったのです。
入団2年目からスター街道を一気に駆け上がった選手だけに、首脳陣にも言いづらい面があったのかもしれません。仮に厳しく指導してくれるコーチがいたとしても、不動の正遊撃手となった当時の稼頭央がへそを曲げていた可能性だってあります。そういう点では、基礎からやり直すにはいいタイミングでした。こちらの考えを理路整然と話したら、稼頭央も納得してくれました。
メッツは若いホセ・レイエスが遊撃に定着していたため、守備の基礎づくりは二塁を想定したものにしました。足の運びを修正する意味でも、その方が好都合だったのです。コロコロと転がしたボールに対して真っすぐにステップし“間”を意識して、いい位置で捕球する。スローイングも一球一球、フォームを確認しながら丁寧に行いました。
こうした単純作業の繰り返しは面白くありません。ましてやスター街道をひた走ってきた選手ともなればプライドが邪魔をしたり、簡単には受け入れられなかったりします。ニューヨークに本格的な冬が訪れ、11月末に温暖なロサンゼルスに場所を移してからも練習の約8割はゴロ捕やキャッチボールばかり。股関節のトレーニングとして片足を上げたままトスし合ったり、相手の体重と押し込んでくる力をしっかり下半身で受け止める相撲トレのようなこともしました。
年が明けて2月下旬のキャンプイン後も重点を置いたのは守備練習。それでも稼頭央は黙々と続けました。メニューをつくった僕ですら「偉い」と思いましたし、稼頭央が人より優れているのは「努力できる才能」だと再認識させられました。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。











