【熊澤とおる人生 100年時代のセカンドキャリア(17)】地道な努力というのは続けることに意義があります。それを証明してくれたのが、松井稼頭央です。交換トレードでメッツからロッキーズへと移籍した2006年は腰痛で2か月ほどマイナー暮らしとなりましたが、8月下旬にメジャー復帰して32試合に出場。打率3割4分5厘、2本塁打、19打点、8盗塁と打撃だけでなく走塁でも輝きを取り戻し、基礎から見直した守備でも主に二塁で存在感を示すことに成功しました。

 ロッキーズからの評価は決して高かったわけではありません。新たに合意した1年契約は年俸150万ドル(当時のレートで約1億8000万円)プラス出来高払い。メッツとの3年契約が総額2010万ドルプラス出来高払いだったことを考えれば大幅ダウンですが、改めて当時の新聞を見返してみたら「ロッキーズに感謝したい。年俸は活躍すれば、それについてくると思うけれど、それとは別にこちらで野球ができる喜びをかみしめながらプレーしたい」との稼頭央の談話が掲載されていました。偽らざる本音だったと思います。

 前年のシーズン終盤に実力の片りんを披露したことで、球団からの扱いも良くなりました。プライベートな練習で当たり前のように球団施設を使わせてもらえるようになったのもその一つ。小さなことで言うと、個人トレーナーである僕への対応も変わりました。1年目には目も合わせてくれなかったオダウドGMが笑顔で「きみのことを何て呼べばいいんだ?」と声をかけてきたり…。現金なものですよね。

 何よりうれしかったのは守備での評価が高まったことです。移籍2年目の07年も腰痛での離脱はありましたが、5月下旬にメジャー復帰すると前年までの正二塁手ジェイミー・キャロルを押しのけて「2番・二塁」に定着。シーズン終盤には俊足のウィリー・タベラスが離脱すると1番を託されるようになりました。

 特に圧巻だったのはラスト15試合の戦いぶりです。ロッキーズは11連勝を含む14勝1敗の快進撃を見せ、最後はワイルドカードをかけたパドレスとの決定戦を制しプレーオフ進出を決めました。2点を勝ち越されて迎えた延長13回裏に、絶対的守護神のトレバー・ホフマンから大逆転の口火を切る二塁打で出塁したのは稼頭央でした。

 メッツ在籍時に酷評されていた守備は二塁で102試合に出場して、わずか4失策。守備率9割9分2厘はリーグ最高の数字でした。三塁手のギャレット・アトキンズも「一塁に走者がいても、二塁の稼頭央に投げれば併殺にしてくれる」と絶大な信頼を寄せていたほどです。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。