【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(6)】プロ野球には、中学や高校で4番を打っていたような選手が集まってきます。しかし、実際にプロでも4番を打つのはチームで一人だけ。打線を線としてつなげるには、出塁率が高くて足の速い選手や、バントや転がす打撃でクリーンアップにつなぐ役割の選手も必要です。それは誰かがしなければなりません。
現在、監督として西武ライオンズを率いる辻発彦さんも社会人の日本通運でプレーしていたころは4番打者として長打が売りだったと聞いています。守備も当時は三塁が本職で、パ・リーグ最多のゴールデン・グラブ賞8度受賞の二塁を守ったのは1試合だけだそうです。
辻さんの入団時は通算2081安打の山崎裕之さんに同474本塁打の田淵幸一さん、助っ人のスティーブ、大田卓司さんに片平晋作さんと猛者だらけ。球界一の呼び声高かった二塁守備もバットを短く持った独特の打撃スタイルも、プロの世界で生き抜くために身につけた技術だったわけです。
僕には、その“割り切り”ができなかったのかもしれません。特にプロ入り後の2年間は「転がせ!」「走れ!」の繰り返し。特打ならぬ「特バン」では、30分間ひたすらバント練習だけをさせられたり…。経験のない人には「バントぐらい」と思われるかもしれませんが、高校を卒業するまでほとんど試合でしたことがなく、相手の一塁手や三塁手にチャージをかけられると対応できませんでした。
フリー打撃にしてもそう。来る日も来る日も逆方向へ打つ練習ばかりしていた弊害で、いつしか打球を引っ張れなくなってしまったのです。狙っても柵越えしなかった時には悲しい気持ちにもなりました。
そんな中でも和田博実二軍監督には試合で使っていただき、日本ハム戦では試合終盤までノーヒット投球を続けていた武田一浩さんからチーム初安打となる本塁打を放ったり、当時は投手だった上田佳範からサヨナラ打を記録したこともありました。
しかし、好不調の波が激しく、長続きしない。結果が出るのは“たまたま”で、理にかなった打ち方をしていなかったからです。武田さんから打った本塁打は、その典型でした。ストレート2球で追い込まれ、3球目に直球狙いでフルスイングしたところジャストミート。しかし、武田さんが投げたのはスライダーでした。こんな調子では安定した成績など残せるはずがありません。
自分の打撃をさせてもらえず、チャンスを得ても結果が出せない。そんなジレンマに陥っていた僕に光を与えてくださったのが、辻さんや現在は鹿児島城西高の監督をされている佐々木誠さんでした。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












