【球界平成裏面史(36) 阪神・藤田平監督解任騒動の巻(3)】契約年限などを巡って大いにモメた藤田平監督の“甲子園籠城事件”は「解任」という形で決着した。交渉に当たった三好一彦球団社長を「自分では何も決められん。伝書鳩の方が賢い」とまで切り捨てた指揮官の強気ぶり…。その裏にあったのが、阪神電鉄本社の総帥・久万俊二郎オーナーが本社組合幹部に語ったとされる「藤田にはまだやってもらう」との来季続投に関する“お墨付き発言”だった。本社トップの貴重な文言をその幹部から直接、事前に得ていたのだ。

 平成8年(1996年)9月12日、深夜に及んだ会談でも「オーナーは辞めさせるとは言ってないはず。確認してくれ」と抵抗する藤田監督に、三好社長は「いや、今日12日の役員会で決定したことで…」と右往左往するばかり。球団側はもちろん、第三者から見ると藤田監督の言い分は“久万オーナーの口約束にすぎない”“組合幹部からの話”といったところだろう。

 しかし、実はこの会談の約1週間前、まだスポーツ紙各紙で解任報道が吹き荒れる中、藤田監督は甲子園のロッカー室で三好社長から「(来季も続投させるという)オーナーの発言は本当でした」と説明を受けていたという。そんな経緯を三好社長は知っていたはずなのに、いざフタを開けたら真逆の解任通告。続投を確信しながらハシゴを外された格好の藤田監督が「さらし者にされた」と激怒し「補強に金もかけんし、こんな会社なら誰が監督やってもうまくいかん。選手らもかわいそうや」と本音をブチまけたのも無理はなかった。

 前回も触れた兵庫県西宮市内の藤田監督邸での取材時、リビングルームの片隅に複数の月刊誌が無造作に置かれていた。そのうちの一冊に法学部の大学生なら誰もが手にして勉強した月刊誌「ジュリスト」(当時は隔週で発行)があった。

 何でこんなものが? 藤田監督に尋ねると「いや、口約束というのが法的にどこまで効力があるんかなと思ってな。何事も勉強やろ」。多くは語らなかったが、今思えば「法廷論争」も辞さなかったのではないか。生え抜き野手として名球会入りまで果たした男の強烈な意地が垣間見えた。

 最終的に球団は電鉄本社の許可を得て藤田監督への「慰謝料」という形の補償金で事態を収拾させたが、後味の悪さは残った。2年連続最下位に終わった平成8年は、観客動員数が前年比21万3000人減と大幅に落ち込み、28年ぶりに赤字転落となった年。経理面でうるさかった久万オーナーも結局は苦渋の決断をしたのだろうが、一貫性のなさと世間体を気にする電鉄本社の体質は“ダメ虎”を培養してきた。

 現場にも問題はあったように思う。9月13日の藤田監督邸での取材中、現場にいた一軍マネジャーからかかってきた電話の内容からも、それは垣間見えた。当日の敵地での横浜(現DeNA)戦から監督代行を務めた柴田猛ヘッドコーチが、チームの方針として下位で起用してきた新庄剛志を突如4番に抜てきしたという報告だった。「な、阪神はこういうチームやねん。だからあかん」。表情はおどけていたが、はらわたは煮えくりかえっていたに違いない。ひと皮むけば現場も同じ…。だから当時の阪神タイガースの病巣は深かった。

 それでもこの年は5年目の桧山が前年の8本から大幅増の22本塁打を放ち、投手陣も2年目の川尻が13勝、3年目の藪も負けじと自身初の2桁勝利となる11勝を挙げるなど若手が台頭してきたのも事実。新庄、亀山の人気先行コンビを否定し、チームにはびこる「負け犬体質」を一掃しようとした“鬼平”が続投していたらどうなっていたか――。

 後に阪神監督を務め、平成15年にチームを優勝に導いた星野仙一氏は生前に「(藤田)平が言ってることは正しい。現場を軽く見ている、これまでの本社が悪い。ただ、シマちゃん(島野ヘッドコーチ)みたいに周りに味方できる人間がもう少しおったら…」と評価していたのを思い出す。

 時代は令和となり、阪神の球団職員までが「あの暗黒時代は…」と客観視する。だが、藤田監督と、電鉄本社を含むフロント陣のどちらが“真っ黒け”だったのか。近年では長期政権を託されていた金本監督が一度の最下位だけで解任された。平成17年を最後にリーグ優勝から見放されている窮状を見れば、答えはお分かりだろう。