【気になるアノ人を追跡調査!野球探偵の備忘録(42)】かつて日本最南端の高校を春夏連続で甲子園へ導き「離島の名将」と呼ばれた監督がいた。大嶺祐太(現ロッテ)らを擁し、甲子園3勝を挙げた前八重山商工監督・伊志嶺吉盛氏(63)は今、故郷の石垣島を離れ、日本文理大付(大分)で指導にあたる。離島のハンディキャップを乗り越えての甲子園とその後のドラフトでの騒動を新天地で再スタートを切った監督が語った。

 伊志嶺監督が八重山商工に就任当初、島内の学校はわずか3チーム。本島の学校と比較しても、どうしても実戦練習の機会は限られる。対外試合を行うだけで選手一人あたり年間40万円、県外ともなれば60万円ほどの遠征費を、ときに自腹を切り、ときに銀行に借り入れながら、野球一筋で打ち込んできた。環境面のハンディから、たとえ有望な選手がいても多くは高校進学と同時に島を出て行く。人材流出という現代の高校野球にも通じる問題が、石垣島にはもっとミクロかつ死活的なものとしてあった。

「昔、八重山高校が県決勝まで進んだことがあったけど、相手の沖水(沖縄水産)には石垣出身が3人もいた。いい選手はみんな沖水や興南に行く。とすれば、小中高一貫で指導するしかないですよね」。重いハンディにはね返され一度は監督を退いたが、その後少年野球チーム「八重山マリンズ」、中学硬式チーム「八重山ポニーズ」を立ち上げ、草の根から選手育成に取り掛かる。大嶺祐太と出会ったのは彼が小学3年生のとき。以来約10年間、野球を通して家族同然に時間を重ねた。

 2003年に市の要請で八重山商工監督に復帰。スパルタな指導ですぐに選手は2人にまで減ったが、翌年、手塩にかけた大嶺たちが入学してくる。愛弟子たちを率いて沖縄県大会を勝ち進み、06年、春夏連続出場の偉業を成し遂げる。迎えた夏の甲子園。松代(長野)との2回戦で制球が定まらず四死球を連発した大嶺に、伊志嶺監督は伝令を送る。伝えた言葉は何と「死ね」。エースは笑いながら指揮官に「だったらお前が死ね」と返し、息を吹き返した。「翌日の新聞で大きく載っちゃってね。高野連から注意はされなかったけど、学校には20、30件苦情の電話があったと校長がぼやいてた。でもね、石垣じゃ普段から使う言葉。野球だって刺すとか殺すとか、物騒な言葉使うじゃない(笑い)」

 3回戦で智弁和歌山(和歌山)に敗れたものの、離島の学校の快進撃は大きな反響を呼び、その年のドラフトではソフトバンクが早くから大嶺の1位指名を公言していた。相思相愛のなか、直前になってロッテが1位指名に動いて競合し、くじ引きの結果、交渉権を得た。「実はドラフトの1週間前、ロッテのスカウトから『(1位指名が)あるかもしれない。前日までには報告するから』と電話があったんです。ソフトバンクにしか行かないつもりだった祐太には言えなかった。当日は本島で秋季大会があって、飛行機に乗る直前にスカウトから連絡が入って。急いで帰ってテレビをつけたらソフトバンクが引いたくじを落としたところで、祐太は泣いていました。くじ引きで人生が変わるというのも不思議な話ですよね」

 翌々年から、ロッテは春季キャンプの地を石垣島に変更。離島の高校生の運命を左右したドラフトは、球団を動かし、観光収入が主だった島に大きな経済効果をもたらした。新球場が設立され、それに伴って大学生、高校生のキャンプや遠征も増加。気づけば遠征費の捻出に苦労していた離島のハンディはなくなっていた。09年には祐太の弟で、同じく小学校から指導してきた大嶺翔太のロッテ入団が決まった。「すごいことだと思うし、ありがたいこと。今まで応援してくれた島の人たちにも、半分くらいは恩返しができたと思う」

 学校の方針により、昨夏限りで八重山商工監督を勇退。この春からは新天地・日本文理大付で指揮を執る。「石垣から出たことはほとんどない。この年で島を出るのは勇気がいったが、夏が終わってからは抜け殻のような毎日だった。ベースボール・イズ・マイライフ。野球にかまけて離婚も2回しましたが、まだ辞める気はありませんよ」。名将の挑戦はさらに続く。

 ☆いしみね・よしもり 1953年11月23日生まれ、沖縄県石垣市出身。小学校5年生で野球を始める。石垣第二中、八重山農林では内野手、捕手。沖縄大では準硬式野球で外野手として1年、2年と全国2連覇。78年、八重山商工監督に就任。83年に監督を退き、94年に少年野球チーム「八重山マリンズ」、98年に中学硬式野球チーム「八重山ポニーズ」を立ち上げて指導にあたる。2003年、八重山商工監督に再任。06年に大嶺祐太(現ロッテ)を擁し甲子園春夏連続出場。16年に監督を勇退後、日本文理大付(大分)監督に就任した。165センチ、70キロ。右投げ両打ち。