【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(23)】2011年9月22日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)の試合前、中日球団は落合博満監督の退任とOBの高木守道さんが新監督に就任することを発表します。事実上の解任でした。04年にドラゴンズの指揮官に就任した落合監督は前年までの7年間はすべてAクラス。日本一1回とリーグ優勝3回という素晴らしい成績を残していましたが、ナゴヤドームの観客が年々減少していたことが落合監督と契約延長しなかった最大の原因だったと言われていました。

 ただ、落合監督の退任が発表された時点で2位のドラゴンズは首位・ヤクルトと4・5ゲーム差。逆転Vが十分可能な状況でした。そしてこの退任発表が選手を発奮させたのかチームはここから反撃を開始。ヤクルトを逆転して球団史上初の連覇を達成することになったのです。

 クライマックスシリーズも勝ち上がり、日本シリーズではソフトバンクと対戦。3勝3敗で第7戦までもつれこみましたが、最後は0―3で敗れオレ流2度目の日本一とはなりませんでした。とはいえ、退任発表があってからの逆襲劇はお見事でした。落合監督は8年目のラストイヤーも見事な手腕を発揮したと思います。

 ただ、やっぱり自分の首を切ったフロントに対して落合監督も思うところがあったのでしょう。12月3日に名古屋市内で優勝パレードが行われることになったのですが、チーム内では落合監督は参加しないのではという噂も流れました。監督としての契約期間外の行事だったからです。とはいえさすがに優勝監督のいないVパレードでは格好がつきません。球団側も説得して何とか落合監督も参加することになりました(これに関しては球団側が落合監督にかなりのギャラを支払ったとも言われていました)。

 落合監督にとって04、06、07、10年に続いて5度目となった優勝パレードは栄の久屋大通公園「光の広場」を出発して広小路久屋西、広小路伏見、柳橋を経て名駅近くの笹島交差点まで続き、多くの中日ファンが名将との別れを惜しみました。

 パレードが終わった後にチームはナゴヤ球場に戻って解散。室内練習場にいた私はパレードを終えた落合監督と通路で偶然会ったのです。「落合さん、お疲れさまでした。いつかまた名古屋で監督やってください」。8年間の感謝の気持ちを込めて私は落合監督にそう言いました。すると落合監督はこう言って去っていったのです。「もうここはない」

 常にAクラスで優勝争いをしていたにもかかわらず自分を必要としなくなった中日球団に対して落合監督も決別するつもりだったのでしょう。ところが…。「落合博満氏、GMに就任!」。2年後、まさかのゼネラルマネージャーとなって落合さんはドラゴンズに戻ってきたのです。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。