TAJIRIが感じ続けてきたのは、日本のプロレスそのものへの違和感だった。

 1994年にIWAジャパンでデビューしたTAJIRIは、当時を「プロレスというものが、まだ身についていなかった」と振り返る。目の前の試合をこなすことで精一杯で、「何が正解なのかも分からないまま、とにかく続けていた」という感覚だったという。キャリアの初期は、技術や結果以前に、プロレスという世界に身を置くこと自体に必死だった。

 その後、活動の場を海外にも広げていく。1990年代後半にはECWに参戦し、2001年からはWWF(現WWE)のリングにも立った。国内外で経験を重ね、キャリアとしては大きな節目をいくつも越えていった。

 転機となったのは、海外での活動中にヒザを負傷し、自宅待機のような生活を送っていた時期だった。時間に余裕ができ、「何となく」見ていたユーチューブで、九州プロレスのドキュメンタリー映像に出会ったという。「これは、いいことをしている団体なんじゃないかと思った。プロレスラーというのは、本来こういうふうに存在するべきなんじゃないか」。映像を通して感じたのは、勝敗や派手さとは異なる、プロレスの在り方だった。

九州プロレス道場で思いを語るTAJIRI
九州プロレス道場で思いを語るTAJIRI

 地方を中心に活動し、普段ならプロレスに触れる機会のない人々の前にリングを持ち込む。その姿勢の中に、TAJIRIは自身が抱えてきた違和感の理由を見いだしていった。

 実はその前に、一度だけ九州プロレスから大会へのオファーを受けたことがあった。声をかけたのは、同団体の理事長・筑前りょう太。その記憶と、映像で見た活動内容が結び付いたという。「あの時、声をかけてくれた団体だなと思い出した」。そこから、九州プロレスの映像を繰り返し見るようになった。

 その後、日本に戻ってからも、心の中に引っかかるものは残り続けていた。「日本のプロレス界全体の人気が落ちていく中で、産業そのものがマニアックな方向に走っているんじゃないか、という感覚があった」。そうした思いは次第に強まり、2021年に全日本プロレスに所属していた頃には「これは確信に近いものになっていた」と語る。その流れの中で「そういう状況でプロレスをやっている自分自身が、正直、嫌になってきた」と胸の内を明かした。

 日本は人口も多い国ではなく、プロレスファンの数もアメリカに比べれば限られている。「今の日本で、レコードをたくさん売るのが簡単じゃないのと同じで、プロレスを広げていくのも簡単な時代じゃない」。そうした現実を踏まえた上で、地方を軸に活動を続ける九州プロレスの姿勢は「時代に合っている」と感じたという。

 違和感から目をそらさず、その理由を確かめるようにしてたどり着いた場所が、九州プロレスだった。