中学時代に柔道を経験し、1972年に栃木・足利工大付高(現・足利大付高)の自動車科に進学しました。バイクが好きで、将来は車関連の仕事がしたかったからです。母親のスーパーカブを譲り受けて、自分なりにスパナでいじるのも好きでした。
高校のレスリング部は名門として知られていましたが、当時は入ろうとは思っていなかったんです。たまたま1年の同じクラスに入部したい同級生が5人いて、一緒に練習を見学に行って。当時の監督から「入部しても、バイクの免許を取っていいぞ」と言われたこともあり、全員で入ることになりました。
監督や先輩も最初は優しかったのですが、徐々に部内の上下関係が厳しくなってきて…。結局、5人のうち夏休み明けに残っていたのは自分だけでした。学校のホームルームが終わって、友達は午後4時ぐらいに「じゃあな! 頑張れよ!」って帰っちゃう。みんなバイクを乗ってて、自分もその道に行くはずだったのに「なんで、こんなところで運動してるんだ…」とバカバカしく思っていましたね。
自分も“誘惑”に負けて、放課後の練習をサボって帰ろうとしたら、最寄り駅で先輩に見つかって「おい、谷津。どこに行くんだ。早く戻れ!」と怒られ、学校に戻されてしまいました。そうしたこともあり、しぶしぶレスリングを続けていました。
ただ、中学時代に柔道を少しやっただけで、一般の学生に勝てたので「俺はレスリングだって強いぞ」と自信はありました。あと、嫌な先輩がいたので練習中のスパーリングで合法的にやっつけて、ぎゃふんと言わせてやろうと思っていました。生まれつき足腰が強かったし、取っ組み合いをやっても「絶対こいつらに負けない」という自信があったので。
そして真面目に練習をしていると、1年生で北関東大会で2位になりました。大きな賞状をもらってうれしかったし、何より母が「あんた北関東で2位か、すごいね!」と喜んでくれて。赤飯を炊いて祝勝会まで開いてくれて、母がこんなに喜んでくれるなら、もっと頑張ろうと思いました。
2年生になって北関東大会の70キロ級を制し、国民体育大会でも優勝しました。日本の高校選抜にも選ばれて、米国・コロラド州に1か月間行って交流試合に参加できました。だけど、周りは全員3年生だったので「おい、2年! この野郎!」と言われて、こき使われて。日本に帰国する途中、ハワイに寄って反省会もありましたが、あまり楽しめませんでした。
そして3年時に高校総体(インターハイ)75キロ級で優勝し、多くの大学からスカウトを受け、アマレスの名門・日本大学に進学を決めました。












