【プロレス蔵出し写真館】11月25日は、2010年(平成22年)に67歳で亡くなった星野勘太郎の命日だった。晩年は魔界倶楽部総裁として「ビッシビシ行くぞ」のフレーズで人気だった。
星野は170センチと小兵ながら血気盛んで、ケンカファイトも辞さない現役時代は〝突貫小僧〟の異名を取った。
2001年にダイナマイト・キッドが著した自伝「PURE DYNAMITE」で、1982年(昭和57年)1月15日、新日本プロレス姫路大会で行われた星野との一戦が〝ケンカマッチ〟だったと明かされた。
試合はキッドの激しいキック、パンチ、ヘッドバットの猛攻で始まり、キッドのダブルリストロックは折れる寸前までひねり上げる強烈なもの。徐々に試合は硬い展開になり、星野をコーナーに詰めたキッドは下腹部にヒザ蹴りを見舞う。キレた星野がフロントチョークで絞め上げると、キッドは星野のリストをひねって外した。
キッドは「グロヴィット(フロントチョーク)をかけてきやがった。残念だが俺はその外し方を習得していた。俺はヤツの左ヒジに右手を伸ばし、一点集中でグイッと引っ張ってやった。すると危うく切れてしまうほど、ヤツの指関節は悲鳴を上げた」と記している。
キッドが急所を蹴り上げると、星野も同じようにやり返す。互いの技は受けない。星野が再び顔面をロックすると、なんとキッドはその腕にかみついた。フィニッシュは唐突に訪れ、キッドが星野にツームストーンパイルドライバーを見舞い、コーナーに素早く上ってダイビングヘッドバットを決めた。柴田勝久レフェリーは高速でカウント3を数えた。
自伝でキッドは「きっかけを作ったのは星野」としている。
さて、前田日明とのケンカ試合はオールドファンには知られた話だろう。
86年(昭和61年)1月14日、兵庫・豊岡大会でそれは起こった。星野は金秀洪とタッグを組み、前田&山崎一夫のUWF勢と対戦した。前田との殴り合いで口の中を切った星野はエキサイト。試合が終わると、前田が星野に詰め寄って両陣営の若手が総出で止めた。
収まりのつかない星野は前田の控室に殴り込んだ。
前田は「殴り込んで来ましたね、星野さんひとりでね(笑い)。オレの方からしたら、星野さんが技を受けないっていう感じでしたね。(控室では)殴り合う前に(周りに)止められました」と回想する。
同年4月29日、三重・津大会で発生した前田とアンドレ・ザ・ジャイアントのセメントマッチでは、星野との絡みが、後に脚光を浴びた。
試合はアンドレがまったく技を受けない展開。前田に決めたフルネルソンは強烈なものだった。
ラチが明かない状況に意を決した前田は、セコンドの星野に叫んだ。
「やっちゃっていいんですか!?」
星野は〝困り顔〟でなにやら返答していた(写真)。
前田は「(星野さんは)『オレに聞くな』って言ったんですよ」と振り返り、「試合が終わってから星野さんに詰め寄ったことはないですね」と一部のシャワー室で星野に泣いて訴えたという話は否定した。
結局、藤原喜明がGOサインを出し、前田は危険な蹴りをアンドレのヒザ頭に見舞い、アンドレを〝戦意喪失〟に追い込んだ。
星野でもうひとつ思い出すのは81年7月。私は星野が札幌で婚約発表をしたときに特写させてもらったが、「オレの婚約がニュースになるのか?」。そう言って照れていた姿を覚えている。気性が荒いと聞いていただけに、その反応に面食らった。
星野は小気味いいバイプレーヤーとして、新日本プロレスの隆盛を支えたひとりだった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














