【プロレス蔵出し写真館】今から39年前の1985年(昭和60年)12月12日、東京・大久保の飲み屋に〝超獣〟ブルーザー・ブロディと〝スーパーフライ〟ジミー・スヌーカの姿があった。
店の常連客が声をかけた。「どうするの? 全日本(プロレス)へ行くの?」
「いや、自分たちにはそんな勇気はない」。そうブロディが答えた。
この日、ブロディとスヌーカは宮城・仙台市で新日本プロレス「IWGPタッグリーグ戦」の優勝決定戦を、藤波辰巳(現・辰爾)&木村健吾(後の健悟)組と争う予定だった。ところが、上野駅でレフェリーのミスター高橋と口論になり、仙台行きの新幹線に乗車せず、定宿の新宿の京王プラザホテルに戻った。ホテルを勝手にチェックアウトして、タクシーで同じ新宿のホテルセンチュリー・ハイアット(現ハイアット・リージェンシー東京)に向かった(写真)。
その日の夜、2人は行きつけの店で憂さを晴らしていた。マッチメークへの不満が原因と、後に関係者が明かしている。この年の3月21日、ブロディは全日マットから新日マットへ戦場を移していた。全日プロから去って行ったレスラーを、ジャイアント馬場がリングに上げないことはブロディも承知していた。
さて、ブロディが再び日本のリングに戻ったのは追放された新日プロだった。86年8月、米ハワイで和解が成立して来日を果たした。9月16日の大阪城ホールでは、アントニオ猪木と60分フルタイムドローの死闘を繰り広げた。11月14日から開幕する「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」で再びスヌーカとのコンビでの参加が決まった。ブロディは遅れて参戦予定で、2人のリーグ戦の初戦は21日の新潟大会だった。
ブロディが〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアント、〝新・格闘王〟の称号を得た前田日明とシングルでの特別試合を行うことも併せて発表された。
ところで、前田戦が発表された際〝危険な香り〟が漂い、試合がどういう展開になるのかまったく想像がつかなかった。この年の4月29日、三重・津大会でのアンドレ戦のような不穏試合になることも予想された。
ところが、ブロディは19日、一方的にキャンセルの電話を入れてきた。穴のあいた前田戦は坂口征二が〝男気〟出陣を決意する。
前田は当時を振り返り「(新日本が)ブロディをけしかけてオレにやってくるのかと思った。プロレスラーって個人営業主だから、試合中にケガしたら終わりじゃん。『前田はどうしようもないから潰してくれ』みたいなこと言われてやって、自分だってケガするかもわからないのに…だからブロディの方も疑心暗鬼だった。新日本に対してイヤ気さしてるでしょ」と語る。
「もしやってたら? アンドレ戦の時に(ミスター)高橋さんが『いや、オレ(今日)レフェリーできないんだよ』(と言った)みたいな、そういう試合になったと思うよ」と前田は明かした。
セメントとなったアンドレ戦は高橋が試合前、前田に「自分がレフェリーではない」と告げていた(裁いたのはアンドレの親友ミスター・フレンチ)。前田は不穏試合になることも〝頭にあった〟ようだ。
結局、ブロディは87年に全日本に復帰を果たす。翌88年3月27日には日本武道館でジャンボ鶴田を破り、インターヘビー級王座を奪取。ファンや関係者と抱き合い喜びを爆発させる姿は、ヒールらしからぬ光景だった。
和田京平レフェリーは「馬場さんも頭が上がらない人から〝ブロディを戻すよう〟泣きつかれた。何度も訊ねてくるから、馬場さんも『まぁ、しょうがねぇか』って根負けした。ブロディも気まずかったんだね。控室でおとなしかった。でも、全日本のファンはアットホームでウエルカムだったから、ブロディは全日本に来て楽しかったんじゃないかな」と語る。
「(ブロディのインター奪取は)〝戻って来た人を優遇したな〟って思った。ブロディもファンのやさしさを肌で感じて、感無量だったんじゃない? 馬場さんもそれを見て(戻して)よかったと思ったんじゃないかな」(和田レフェリー)
〝わがまま〟として知られたブロディも、全日本プロレスだけは別だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














