【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(55)】新日本プロレス旗揚げ50周年記念大会(2022年3月1日、日本武道館)のメインイベント終了後、棚橋弘至、オカダ・カズチカとともにマイクを握った俺は闘病中だった師匠のアントニオ猪木さんにエールを送った。いつか必ず新日本の会場に戻ってきてもらうために、猪木さんの代名詞だった「1、2、3、ダーッ!」で大会を締めくくった。
しかし俺の、選手たちの、そしてファンの願いはかなわなかった。この年の10月1日、猪木さんは79歳で亡くなった。猪木さんは難病「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と闘い続けていた。俺も何度もお見舞いに行った。ふせっていても、気持ちはレスラーなんだろうね。ベッドに横たわっていても目はギラギラしているし、もう一度立ち上がりたいという思いがひしひしと伝わってきた。
最後に会ったのは亡くなる2週間くらい前だった。妻と2人でお見舞いに行き「あまり無理できないので1時間くらい」と言われていたんだけど、結果的に2時間以上いたのかな。猪木さんが今食べたいものの話をしたり、俺が昔、アフリカに置き去りにされた時の話をしたり…。猪木さんも思い出したのか笑ってたけどね。そういう話をしたかったんだろうな。あの時だけは素の猪木さんだった。それをスタッフも察してくれたのか、予定していた時間をオーバーしても話し続けることを許してくれた。
話を終えて帰ろうとなった時、猪木さんが見送るために歩行器を使って部屋から玄関まで出てきてくれた。俺もビックリしたね。あれが最後に見た猪木さんの動いている姿だった。かすれ声だったけど「また来いよ」と言ってくれたのが、今でも忘れられない。
猪木さんが亡くなった日、俺は「HEAT―UP」という団体の川崎大会に出場した。バックステージで記者からコメントを求められ、無言で通すわけにはいかないと思ったんだけど、言葉にならずに人目をはばからず号泣した。
翌日に弔問させてもらうと、猪木さんは穏やかな顔をしていた。弟の啓介さんに言って頭を触らせてもらった。日本プロレス時代に付け人として背中を流し、シャンプーをしてあげた時の記憶が鮮明によみがえってきて、猪木さんの頭の形を確認するかのように繰り返し触っていた。
憧れの人から始まり、時には師弟、時にはライバル、時にはオーナーと社長としていろいろな猪木さんと関わってきた。考えてみれば幸せだよ。親よりも長い時間を過ごしたわけだから。もしもリングを下りてしまったら、猪木さんとの思い出や受け継いできたものが消えてしまうような気がして、今も俺は現役にこだわり続けている。













